前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「泣き声」 2004年7月18日
聖書:創世記 21章9-21節
出向
大学を卒業して会社に就職してすぐに系列の会社に出向に出された。何とか設計部という一部屋に100人くらいいるようなところに行くことになった。そこに行ってみると、その会社の人間だけではなく、系列や子会社なのだろう、いろんな会社の人たちがいた。いろんな会社の人間が集まって仕事をしていた。そして普段は誰がどこの会社の人間かなんてことを殊更気にすることはない。その工場で部対抗のスポーツ大会なんてのがあったりするが、僕もサッカー大会に2度出たけれども、そんな時もその部に関係する人であればどこの会社の者でも出ることができた。
毎年10月10日にその工場で運動会をやっていた。そしてその日が近づくと、設計部の部屋の中で普段よりもやたらと空席が目立つ時があった。どうしたのかと思って隣の人に聞いてみると運動会の準備をしているということだった。昼間から。改めて見てみるとそこの会社の人間がごっそりいなかった。普段は自分がよその会社から出向してきているということはそれほど意識することはないけれども、流石にその時には俺はここの会社の人間ではないんだと思わされた。今まで同じ仲間だというような見方をされていると思っていたのに、急に知らんぷりをされたようでちょっと淋しい気持だった。
会社が違うどころではない、母親が違うことで辛い経験をすることになった人が創世記に書かれている。
約束
アブラハムに対する神の約束は、彼の子孫が星の数のように数え切れないほど多くなるということだった。しかしアブラハムにはなかなかこどもが生まれなかった。このままこどもが産まれないとアブラハムの財産は僕が引き継ぐことになっていたようだ。そこで妻のサラは女奴隷にアブラハムのこどもを産ませることを思い立った。自分が産まなくても自分の夫の子であるならば良しとしよう、自分ももう高齢なんだから、ということだろう。
女奴隷のハガルは身籠もった。そうするとハガルは正妻のサラを軽んじるようになった。そうすると逆にサラはハガルにつらく当たるようになり、ハガルは一度サラから逃げたことがあった。そこで神はハガルの悩みを聞き、天使を遣わしてまた帰ることとなった。
神の約束はアブラハムの子孫が星の数ほど多くなるということだった。けれどもアブラハムとサラはその約束を信じて、その約束に従って神さまに全てを任せて生きる、ということをせず、自分達が策を弄して、策略をして神の約束を成就させようとした、自分達の力で神の約束を実現しようとしたわけだ。
けれどもアブラハムの子孫をサラが産むということは言われていないわけで、しかも二人ともかなり高齢であったようなので、この神の約束が本当になるかどうかと心配するのも分かる気はする。
しかし自分達が苦心して計画を立てて自分達の思い通りにいっていたはずなのに、予想外にハガルに軽んじられるようになったから余計にサラはハガルのことが憎らしくなったのではないかと思う。私の計画どおりにことが運んでいるんだから黙って私に従いなさい、ということだったのではないか。
アブラハムの下に帰ったハガルはイシュマエルという男の子を産んだ。その時アブラハムは86歳だった。サラは10歳若い76歳ということになる。
新たな約束
その後アブラハムが99歳になったときに、神はアブラハムと契約を立て、そのしるしに男子はみんな割礼を受けた。その時にその時にカナンの土地を子孫に与えるという約束を確認するかのようにもう一度アブラハムに語りかける。来年サラがこどもを産むということを。サラとの間に産まれるこどもをイサクと名付けるように、私は彼と契約を立てる、なんていうことを言う、そしてイシュマエルも祝福するということも約束する。
イサク
翌年、神の約束どおりイサクは誕生する。アブラハムが100歳、サラが90歳の時だった。サラの生涯は127年、アブラハムの生涯は175年だったと書いてある。創世記の最初の方に登場する人たちは何百年も生きたなんてことも書いているので、今の年齢と同じに考えることはできないだろうけれども、それでもアブラハムもサラもかなり高齢で、こどもを産めるとは考えられないような歳であったということは事実だったようだ。
神の約束は果たされたわけだが、イサクが乳離れした後に、イシュマエルが弟であるイサクをからかっているのを見たサラは、ハガルとイシュマエルに対する敵意を燃やし、彼らを追い出すようにとアブラハムに言った。
自分が計画して産まれてきたのがイシュマエルであって、イシュマエルにしてみれば全く迷惑な話である。アブラハムにとっても自分のこどもであるイシュマエルを追い出すというのは簡単な話ではなかった。
アブラハムはサラの言うことに逆らうことがほとんどない。だいたいサラの言うとおりにしている。神に逆らうこともほとんどないが。そこでアブラハムは悩むが、神からイシュマエルも一つの国民の父とする、という声を聞いて、サラの言うとおりにハガルとイシュマエルを、パンと水を持たせて追い出してしまう。
泣き声
追い出された者にとっては、そのあたりは砂漠で命の危険にさらされるようなところだそうだ。水がなくなってしまうと死ぬしかない。死にかけた息子が死ぬのを目の当たりにするのが忍びなくて、ハガルは少し離れて息子を見つめていた。
そこで神はイシュマエルの泣き声を聞いて、ハガルに彼を抱きしめてやりなさいと言って、井戸を見つけるさせ彼らはやっと助かる。その後イシュマエルは妻を迎え一族は栄えたようだ。イシュマエルの子孫が今のアラブ人だと言われている。
不信
サラは神が祝福を約束されている夫のこどもを追い出してしまった。命の危険のあるところへ。そしてアブラハムも結局はそれに同意した。神がイシュマエルを祝福するということばを彼らはどう思っていたのか。そして自分達の息子であるイサクを祝福するという約束もどう思っていたのか。彼らは神の約束をあまり信じることができなかったのではないか。このままでは神の約束が本当になるかどうか不安で仕方なかった、だから彼らはハガルとの間にこどもを産まれるようにさせ、イサクが産まれると今度はハガルとイシュマエルを追い出してしまったのだろう。なんだか神の約束に真っ向から逆らっているかのようでもある。
祝福
けれども神の祝福は変わらない。人間は嫉妬や不安から自分で勝手に計画をたてそれを無理矢理実行したりする。人を傷つけたり、人を疎外したりしても自分の願いどおりに事を運ぼうとする。もちろん計画どおりに行くとはかぎらない。けれども人の思惑どおりに行くときも行かないときも、神の祝福はそれら全部を包み込んでいくようだ。人はいろんな争いや行き違いや仲違いをする。しかしそこで苦しみ悩む声を、泣き叫ぶ声を神は聞いてくれる。神はそこにいるもの全てをつつみこんで守っていく。
神が全部守るのだからけんかしてもいいというわけではないだろう。争いが起こるのは、この神の祝福や守りが信じられないことから起こってくるからだ。自分のことを神が大切にしてくれるということを信じられず、自分の祝福を誰かに持って行かれそうであるという心配があるから起こってくる。
神が誰をも守ってくれることを知ること、信じることは、自分の守りがなくなるかもしれないという不安がなくなるということであり、自然と争いも妬みもなくなってくるということだろう。
自分の中に妬みやそねみがあるということは、実は神の祝福や守りを信じないで疑っているということの現れなのかもしれない。神の言葉よりも約束よりも自分が前に立っていたり、神の言葉を聞かないで自分だけの力で何でもしないといけないと思うことによって、不安になったりおかしなことをしたり、焦って余計なことをしたりということがある。大人がおかしなことをすることで子ども達が苦しい思いをするというのが常だ。日常の細々したことから戦争まで、一番苦しむのは子ども達だ。しかしその子ども達の泣き声を神はしっかりと聞いてくれているというのは救いでもある。その神の声を私たちもしっかりと聞いて淡々と生きるものとなりたいと思う。