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礼拝メッセージより
説教題:「とりなし」 2004年7月11日
聖書:創世記 18章16-33節
主
創世記18章では、主がアブラハムのところへやってきて、アブラハムとサラの間にこどもが生まれるという約束を告げる。
そして主はソドムを見下ろす所まで来たときに、これから主が行おうとしていることをアブラハムに告げる、というのだ。アブラハムが世界全ての国民の祝福の基であるから伝えておこうということだった。
その内容は、ソドムとゴモラの罪が非常に重いので、その町を滅ぼすということだった。
ソドム
ソドムという町は、死海の南端の方にあったらしい。
ソドムにはアブラハムの甥であるロトが済んでいた。アブラハムが神の命令に従って故郷からカナンの地へと出てきた時に一緒についてきたのがロトだった。しばらくは一緒にいたが、お互いの家畜が増えてきたために一緒にいることができなくなった時に、ロトは低地に住み、アブラハムは高地に住むことになった。
創世記13章には、
13:10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。 13:11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。
と書かれている。ロトは主の園のような潤った土地を選んで住んでいた、はずだった。ところがその土地は重い罪を持つ土地だったというわけだ。
ソドムの罪がどのようなものであったかというと、旧約聖書のエゼキエル書には、16:49 お前の妹ソドムの罪はこれである。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き安閑と暮らしていながら、貧しい者、乏しい者を助けようとしなかった。ということばがある。お前とはエルサレムのことらしい。旧約の時代には、預言者と言われる人たちが神の言葉を預かって伝えていた。エゼキエルという人も預言者の中のひとりである。同じようなことは、イザヤ書と言われる預言者も、
1:9 もし、万軍の主がわたしたちのために/わずかでも生存者を残されなかったなら/わたしたちはソドムのようになり/ゴモラに似たものとなっていたであろう。 1:10 ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。ゴモラの民よ/わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。 1:11 お前たちのささげる多くのいけにえが/わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に/わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。 1:12 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが/誰がお前たちにこれらのものを求めたか/わたしの庭を踏み荒らす者よ。 1:13 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など/災いを伴う集いにわたしは耐ええない。 1:14 お前たちの新月祭や、定められた日の祭りを/わたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。 1:15 お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を 1:16 洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け。悪を行うことをやめ 1:17 善を行うことを学び/裁きをどこまでも実行して/搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り/やもめの訴えを弁護せよ。
と語っている。貧しい者や弱い立場の者のことを放っておいてはならない。そんな弱い立場の者たちのことを守って行きなさい、というのだ。そう言う人たちのことを大事にしないで、反対にお金や権力を持った者たちが、貧しい者たちから搾取するようなことをしているとは何事か。そんなことをしておりながら、神に犠牲をささげても、祭りを行っても、祈っても、何にもならない、というのだ。片方では弱い者をいじめておきながら、苦しめておきながら、全然助けることもしないで、もう片方では神さま神さま、と言っている。そんな犠牲も祈りも神は聞きはしないというのだ。
そういう罪がソドムとゴモラにもあったのだろう。そのために滅ぼすというわけだ。
アブラハム
アブラハムはそのソドムを滅ぼすということを聞いてびっくりしてしまったことだろう。そこには甥のロト一家が住んでいるわけだ。そこでアブラハムは、面白いことを神に問いかける。
あの町に50人正しい人がいるとしても、その正しい者のために赦さないのですか、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすようなことを不正義をあなたはするはずはありません、と言う。
神は50人正しい人がいれば町全体を赦すという。そこでアブラハムは、45人なら、40人なら、30人なら、20人なら、10人なら、と少しずつ値切るように神に問いかける。10人のために滅ぼさないというのが神の答えだった。
もっと続けて、5人なら、3人なら、一人しか正しい人がいないときはどうなるのか、と聞いてみたい気がする。そしてその答えのようなことがエレミヤ書という預言者に
5:1 エルサレムの通りを巡り/よく見て、悟るがよい。広場で尋ねてみよ、ひとりでもいるか/正義を行い、真実を求める者が。いれば、わたしはエルサレムを赦そう。
と書かれている。ひとりでも正義を行うものがいれば赦すというのだ。
連帯責任
けれども正しいものがそこにいれば全体を赦す、というのは普通あまりないことだ。誰か悪いことをすればそのグループ全体が責任を取らされることがほとんどだ。家族の誰かが悪いことをした、警察沙汰になるようなことをしたとなると、家族全体が世間に顔向けできないようなところがある。社会もその家族全員を罪人の家族、というような見方をしてしまう。旧約聖書の中にも、家族全部が責任を取らされたり、町全体が責任を取らされたりしたことがあったということが書かれている。昔からそういうことが常識だった。
しかしアブラハムは、そんな正義でないことを神はするはずはないと問いつめた。そして神もそれに同意している。正しい者を悪い者と一緒に滅ぼすようなことはしないという。悪を根こそぎ絶やすために、善人も道連れにするというのは神の意志ではないということだ。
とりなし
この箇所はアブラハムがとりなしの祈りをした、と言われるところである。アブラハムのとりなしによってソドムが滅ぼされなくなったわけではない。けれどもアブラハムは何とか神の赦しを願い求めている。
祈りとは神を変えることではなく、自分を変えることだと言われる。とりなしの祈りをするということは、それだけその相手を気にかけ心配しているわけだ。そしてそこで相手のことを祈る。神が正義を行ってくれるように、赦してくれるように、そして最善を行ってくれるように、その相手に変わって祈るということだろう。それと同時に、自分がその相手のために何が出来るのかということを聞くこと、それもとりなしの祈りなのだろう。
今の社会も、ソドムの罪といわれるようなことと同じようなところがいっぱいあるように思う。金持ちはどんどん金持ちになり、たらふく食べ、好きなものを好きなだけ買っている、片や世界の半分が飢え、大した病気でもないのに薬がないためにすぐに死んでしまっているそうだ。あるいは肌の色で差別されたり、国籍によって差別されたりしている。貧しいために命の危険のある仕事を安い給料でしないといけない人たちがいて、その人たちのお陰で金持ちになっているような人もいるそうだ。
私たちもそんな人たちのために祈らないといけないのだろう。その人たちのために自分に何ができるか、何をすればいいのか、そのことを神に聞いていかないといけないのだろう。祈ったから自分の責任は果たした、というようなことではないだろう。
何よりもそんな人たちが今この地球上に、日本にもいっぱいいることに関心を持っていないといけないのだと思う。他の人のために祈るということは、それだけ関心を持っていないとできない。
隣人を愛しなさい、というのがイエスの第一の掟である。隣人のこと、日本のこと、世界のこと、そこで今苦しみに遭っている人のことを私たちも祈っていきたいと思う。