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礼拝メッセージより
説教題:「手放すこと」 2004年7月25日
聖書:創世記 22章1-24節
順風満帆
人を苦しめる言葉のひとつに、こどもはまだなの、というのがある。結婚してしばらくしてもこどもを持たないとそんなことをよく言われるそうだ。聞く側にとっては何気ない、ほとんど挨拶のようなつもりでも、こどもが欲しくても出来ない夫婦にとってはとても傷つくこともあるようだ。おまけに、どうして生まないの、どうして生めないのなんて言われたらどうしようもないらしい。
アブラハム夫婦にとっても、こどもがないということは苦しみであったのだろう。そしてきっとまわりからも、こどもはいないのか、どうして生まないのかと言われ続きてきたのではないかと推測する。こどもがないことの負い目をずっと感じて生きてきたに違いない。
だから彼らにとって神の約束のこども、自分達夫婦のこどもが産まれたことは願ったり叶ったりということだったことだろう。かつてあなたの子孫にこの土地を与える、という神の約束を初めて聞いたのは75歳くらいのことで、25年待ってやっとイサクが誕生したことになる。
アブラハムはその後アブメレクという王と契約を結び、ベエル・シェバという井戸を手に入れた。井戸を手に入れるということはそこに住み着くための条件なのだそうだ。自分の水があることで初めてその土地に定住できるようだ。
神の約束のこどもと土地を手に入れることができ、アブラハムに対する神の約束はここでみんな実現したと言ってもいいような時がやってきた。
命令
ところがそんな時の後、神はアブラハムに、モリヤという土地へ行ってイサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい、なんてことを言ったという。神から約束され自分達夫婦にやっと与えられたその息子を、こともあろうに焼き尽くす献げ物として、つまり全部焼いてしまうという献げ物としてささげなさい、なんていうのだ。
何という命令なのか。しかしアブラハムは神に向かって反論していない。そして次の朝早くには、命令どおりに献げ物の準備を整えて、若者二人と息子を連れて、モリヤに向けて出発してしまう。
三日目にその場所に近づくと、アブラハムはイサクに薪を背負わせて、自分は火と刃物を持って二人で歩いて行った。刃物で殺して薪に火をつけて献げ物とするのだ。イサクは、献げ物の小羊はどこにいるのかと問いかけたが、アブラハムは、小羊は神が備えてくださると答えるしかなかった。そしてその場所に着くと、アブラハムは祭壇を築きイサクを縛って薪の上に載せ、刃物で息子を屠ろうとした。
その時、主の御使いが、その子に手を下すな、あなたが神を畏れる者であることが今分かった、なんてことを言ったという。そしてまわりを見ると後の木の茂みに角をとられている一匹の雄羊がいて、それをイサクの代わりに焼き尽くす献げ物としたというのだ。
択一
こんなひどいこと、厳しいことを神はどうして命令するのか、と思う。そしてアブラハムはなんで無言で従ったのかと思う。あまりにひどい命令には逆らってもいいんじゃないかという風に思う。
でも基本的にアブラハムは神に逆らうということをほとんどしない。アブラハムにとっては神の命令には、従うか、従わないかという選択肢はないような気がする。アブラハムにとって神の命令に従わないなんていう選択肢はないような気がする。幼いこどもは親に逆らうことなどあり得ないことであるのと同じように、アブラハムにとっては神に逆らうことなどあり得ないことだったのではないかと思えるほど、神に言い返すこともほとんどない。
試み
しかしどうして神はそんなアブラハムにイサクを献げよ、なんてことを言ったのだろうか。約束のこどもなのに、長い間待ってやっと生まれた子なのに。聖書には神がアブラハムを試されたと書かれている。
神はアブラハムが自分の命令を聞くかどうか、最後まで命令どおりにするかどうかということを試した。
けれどもそれは、神がアブラハムが神の試験に合格するかどうかを試すための試験であったということよりも、きっとそのことを通してアブラハムに大事なこと、大切なことを教える、そのための試みだったのではないかと思う。
よくこれは試練だということを言う。キリスト教でいう試練とは、神が試し訓練するということだ。苦しみを通して神がその人に何かを教える、伝えるということだ。
生きていく上ではいろんな大変なことがある。何でも自分の思い通りにいくわけではない。苦しい時期もある。事故や病気になったり、家族を亡くしたり、非常に苦しい時を過ごさなければならないこともある。しかし自分のこどもを献げ物としてささげるなんていうことほど辛い試練は他にないのではないかと思う。神はこのことを通して何を教えようとしていたのか。
持つこと
アブラハムにとってこのことは何ものにも縛られないようになるための神からの試練だったのではないかと思う。
人はいろんなものを持ちたがる。いろんなものをいっぱい持つこと、あれもこれも欲しいものをみんな買うことが幸せであるかのような気持ちがあるのではないかと思う。
一昨年とその前の年に2年続けて引っ越しをした。いつのまにか荷物が増えていてびっくりした。一番びっくりしたのはいらないものをいっぱい持っているということだった。使うかもしれない、でも何年も使っていない使う予定もないものがいっぱいあって、そんなものを入れた段ボール箱をあっちの家からこっちの家へ、それを今度は向こうの家へ大移動した。そうして初めて気が付いた。大事に持っておくことがいいことばかりではないのだと。勿体ない、ということを小さい頃から言われ続けてきて、いつか使うかもしれないときのためにとっておくことは良いことだと思っていた。でもものをいっぱい持つことは、その分それを管理して維持していかないといけないわけでとても大変なんだと思うようになってきた。
けれどもものを持つことで安心するような面があるのも確かだ。手放すことが大変であるということもある。お金がいっぱいあればいいと思う。宝くじが当たればいいといつも思う。勝いもしないのに当たればいいなと思うほど。大金が手には入ったらあれとあれとあれを買って、とやっぱりいろんなものを手に入れることを考える。それこそが人生最高の喜びであるかのような気持ちがある。
ささげもの
アブラハムは財産も持っていたようだし、ついに念願のこどもももつようになった。アブラハムはどれも大事に大事に離さないようににぎりしめていこうとしていたのではないかと思う。しかし神はそんなアブラハムにその大事な息子をささげよという。大事な息子を手放せということだ。
それはアブラハムに対して、世の中のあらゆるものを手放すこと、手放しても大丈夫なのだということを教えようとしたということではないかと思う。人がいろんなものを持って握りしめてそれによって自分を守ろうとすることに対して、そうではなく神を見るように、神の守りがあることを知るように、神の備えがあることを知るようにと言われているのではないかと思う。自分の人生を自分が何かに必死にしがみついて守るのではなく、神が守ってくれていることを知るように、神が守ってくれているからこそ手放しても大丈夫なのだということを知るように、そのための試みだったのではないかと思う。だからイサクを献げなさい、手放しなさいと言われたのではないか。
手放す
私たちはいろんなものを握りしめている。お金や財産はもちろんのこと、こんな学校に行ってましたというような学歴や、こんな仕事をしてます、こんな会社に勤めてますというようなこと、あの人から誉められこの人からいい人だといわれること、いつもいい人に見られたいという思い、こどもの自慢、いろんなものをいっぱい握りしめて生きている。そんなものをいっぱい持って生きていくことはとても大変なしんどいことだ。手放すことができればきっととても楽なのになかなかそれができない。
アブラハムにとっては息子のイサクはきっとなによりも大事な、一番きつく握りしめていたものだったのではないかと思う。しかしそのイサクを献げることを通して、あらゆるものを手放すという訓練をさせられた、そしてそこで神が必要を満たしてくれること、あらゆるものを手放しても神に従うことで備えがあるということを知っていったのではないかと思う。
実際こどもにとってはいつまでも親にしがみつかれることはとても迷惑なことだ。摂食障害、拒食症とか過食症とかいう症状を持つ子どもがいるが、それは親が何もかも手を出すこと、親がこどものためということでなんでも先回りしてやってしまうことが原因なのだそうだ。親が子どもを手放さない、それは結局は親が自分のこどもを信頼してこどものことを本人に任せられないということなんではないかと思う。
自分が手放すということは、結局は神に任せていくということなんだろうと思う。神に任せることができるから自分が手放すことができるということだろう。自分が握りしめないで私に任せなさい、神は私たちにもそう言われているのではないか。私たちに対して神は何を手放せと言ってるだろうか。でもきっとそこには神の備えがある。