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礼拝メッセージより
説教題:「暴力からの解放」 2004年6月20日
聖書:創世記 9章1-7節
洪水
地上に悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計るようになった時、神は人を造ったことを後悔し、地上から人をぬぐい去ろうとした。そこで洪水を起こし、ノアの箱舟に乗ったもの以外の地上の動物をすべて滅ぼした。
祝福
洪水の後、神はノアの一族を祝福した。産めよ、増えよ、地に満ちよ、というのは1章にある、天地を創造したときとほとんど同じ言葉である。1章では、人の食べ物は草や木の実であると言われていたが、9章では動いている命あるものを食料としなさいと言われている。つまり洪水の後からは動物も食べていいということになっている。但し肉を命である血を含んだまま食べてはならないというのだ。命である血、と書かれているように、当時命は血にあると考えられていたようだ。血を含んだまま食べるということは、命がある時に食べるということになるのだろうか。神はそれは許されないという。厳格なユダヤ人は今でも血を食べないように気を遣っているそうだ。ステーキも必ずよく焼く、レアで食べるなんてことはない、ウェルダンで赤いところがなくなるようによく焼いて食べる、なんてことを聞いたことがある。
兎に角肉は食べてもいいが血を含んだままではいけない、というのが神の命令である。さらに、あなたたちの命である血が流されたときには、獣からでも人からでも賠償を要求するという。血を流して殺したときには、賠償として命を要求するという。人の血を流す者は、自分も同じに流さないといけない、そしてそれは人が神にかたどって造られたという者だからだ、というわけだ。神にかたどって命を与えられている人の血を流す、殺す者は、自分の命をもって償わないといけないというのだ。人の命を奪うことは自分の命を捨てることにもなる、それほどやってはならないことなのだ。
ひと頃、どうして人を殺してはいけないのかというこどもの質問にどう答えるかというような話しがよくあった。人を殺してはいけないなんて当たり前だとは思うが、ではなぜ殺してはいけないのかということを説明しろと言われるととても難しい気がする。当たり前という以上の答えはなかなか見つからない。
力を持った者が勝利するような社会である。力を持った者が力を奮って、弱い者から搾取するような社会である。あるいはお金を持った者が力を奮うような社会である。力やお金を持った者が、周りを蹴落として、周りを押さえつけて、自分がいい思いをするような社会である。自分たちのためならば周りがどうあろうと、周りが少々傷つこうと、あるいは命を奪われようと仕方ない、と思うような社会である。そこでどうして命を奪ってはいけないのか、ということに対して答えることはできるのだろうか。
教会では、人は神に似せて造られたものであるから、神に造られた大事なものであるから、神のものであるから殺してはいけないということになるのだろう。けれども答えというのはそれしかないような気がする。いろんな物知り顔の大人が、死ぬなとか殺すなとか言っていたが、どうしてそうなのかということを言う人はほとんどいなかった。結局は神を通して人を見ないと人の大事さは分からないような気がする。
命
しかし現実には人の命を奪うことはいろんな所で起きている。殺人事件もある。少し前には小学生が事件を起こした。殺人事件は犯人となって捕まると犯罪人となるが、戦争ということになると殺人は、殺人とは言わなくなって、罪に問われなくなる。よく言われるように、人をひとり殺すと犯罪人になり、戦争で大勢を殺すと英雄になる、というような面が戦争にはある。
あるいは自分が知らないうちに誰かの命を奪うというようなこともあるのかもしれない。最近はテロが問題になっている。テロを撲滅しないと世界が安全にならないというような声をよく聞く。確かにそうかもしれないが、どうしてテロを起こすようになったのということを考える必要があるように思う。テロを起こす人たちは、結局は貧しい国の人たちなのだそうだ。金持ちはどんどん金持ちになって、貧しい者はどんどん搾取されていくような仕組みになっている。自分達が金持ちになるために搾取して貧しくしておいて、テロが起こりそうになるとまたつぶしに行く、そんな暴力的なことを繰り返しているのが今の世界のような気がする。それもキリスト教国と言われるような国がそんなことをしている。
創造
天も地もすべてのものは神が造った。すべての命は神が造った。すべてのものは神が造られたものである。この世界の生き物たちのことも私たちはもっと大事にしなければいけないのだろう。それもこれも神が造ったからだ。もちろん私たちが食べてもいいという許可をもらっている。食べる分を殺すことは許可されているのだろうが、それ以上に殺すことは許されてはいないのだろう。血を食べてはいけないと言われている。血は命であるから、肉から完全に抜かないといけない、それは命を神に返すということらしい。それはどれだけのものを殺したのかということを神に報告するということにもなると思う。生きるために、食べるために殺したということは報告できるが、それ以外で殺したということはまともに報告できない。報告できないようなことを私たちもしているのかもしれない。大量に殺してしまって絶滅させてしまっては、いくら食べるためと言っても神さまに申し訳が立たないという気がする。
神は、鳥も地に這うものも魚も、あなたたちの手にゆだねられると言われる。この世の全てのものは私たちにゆだねられている。しかしそれは自分勝手にどうしてもいいということではないだろう。いくらでも殺して食べろということではないだろう。私たちは神からゆだねられた世界のあらゆるものをしっかりと守っていけということなんだと思う。
自分が金持ちになるため、自分がいい思いをするため、周りに力を振りかざすのではなく、神に造られたものとして、神に生かされているものとして、同じように神に造られたこの世界を守っていくが私たちに求められているのだろう。