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礼拝メッセージより
説教題:「共にうめく」 2004年6月27日
聖書:ローマ 8章18-27節
苦しみ
苦しみから逃げ出すことが出来ればそれを願う。逃げるが勝ち、が私のポリシー。逃げれれば楽かも、しかし今度また苦しみが来たらどうするのか、また逃げるか、今度もうまく逃げられるかどうか分からない。となると苦しみがいつ来るか心配になる。だからいつも逃げるというのもなかなか大変なことだ。そしてたいがいどうしても逃げられない苦しみが襲ってくるものだ。仕方ないから苦しみを受け止めようとする。
それも一人でその苦しみを受け止めないといけないとなるとこれは大変。
しかし、苦しみに耐える、苦しみを受け止めてその場でじっと苦しみが去るのを待つことができれば、苦しみが来るかもしれないと分かっていてもびくびくする必要はない。しかし苦しみを受け止めるというのは大変なこと。苦しみがありながらその中で生き抜くことが出来ればそれは大変すごいこと。一人だけでそれができればすごい。何があっても文句も言わずに耐えれことが出来る人はすごい人だ。
大概の人は何かあると文句言ったり、弱音を吐いたりする。でも文句を言うことや弱音を吐くことでと言うか、それを聞いてもらうことで苦しみがやわらぐ。自分の苦しみを知ってくれている、と言うことでその苦しみは減ってくる。ところがその弱音を聞いてくれずに、そんな事言うもんではない、なんていわれると大変。もっと苦しくなったりする。
「こんなことをするのはいやだ」、とか「したくない」、「なんでこんな目にあうんだ、ばか野郎」とか言うこと、そしてそれを聞いてもらうことで、心が軽くなることも多い。
週末の私の有様であります。分からんぞ、なに言っているんだこいつは、と悪戦苦闘。今日の聖書の個所なんてのもなんだか良く分からん正直言って。だいたい人が書いた手紙から説教するんだから大変。なんてことを言ったときに、大変でしょうねと言われるとちょっと元気になる。でも、牧師だから当たり前でしょ、なんて言われたら余計にしんどくなる。
今日の聖書のすぐ前の所では、わたしたちは私たちを神の子とする霊を受けた、と書かれている。私たちは神の霊を受け、神の霊に導かれている神の子なのだという。神の子とされている、けれども今は私たちは依然として肉を持って生きている。罪を持って生きている、自分中心な、わがままな、エゴを持って生きている。だから私たちには現在はまだ苦しみがある、ということだ。
栄光
しかしパウロは、現在の苦しみは将来私たちにあらわされるはずの栄光と比べると、取るに足りないとわたしは思いますという。今は苦しみを抱えつつ生きている、しかし将来神が用意してくれている栄光は、この苦しみとは比べものにならないものだというのだ。
私たちは神の子とされている、しかしその神の子のすばらしさを私たちはまだ完全には受け取ってはいない、やがてその時がやってくる時を待ちのぞんでいる、そんな希望によって救われているというのだ。
神はそのことを保障してくれている。けれども証明書のように目に見えるものではない。もちろん保証書を預かっているわけではない。
神の子とされているという神の約束と、この世の苦しみとの狭間で私たちはうめいている。
祈り
しかしそんな私たちのために、霊が、神が既に祈っている。私たちの中で。すぐ前のところで、神が私たちのうちにおられると言われていた。そして今日のところではその神、ここでは霊つまり神の霊が私たちの為に祈っている、と言う。私たちのことを祈ってくれている、と言う。こいつのことを頼むよ、と執り成してくれているというのだ。
祈り、それは神を呼び起こすこと、と思っていた。神よ聞いてくれ、俺の祈りを聞いてくれ、こっちを向いてくれ。だから大きな声の方がよく聞こえて言いのかもしれない、と思ったり。
神社で柏手を打つ、がそれは神を呼ぶことだそうだ、俺はこっちに居るからこっちを向いて俺の話しを聞いとくれ、俺の願いをかなえておくれ、と言うこと。らしい。
祈りとはそういうものだと思っていた。ところがそうでもないらしい。既に霊は祈っている。神の霊が、つまり神が先に祈っている。と言うことは祈りとは、神よこっちを向いてくれ、ということではないらしい。神がこっちを見てくれないかもしれない、見てくれていないんではないかと心配することもない。と言うことか。神の方が先に私たちを見ている、私たちを見ている神を私たちが見る、それが祈りなのかもしれない。神はいつも私たちの方を見ていると言うことか。
神が私たちの内におられると言うことは他のところにも書いている。
エフェソの信徒への手紙
3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
コリントの信徒への手紙二
13:4 キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。13:5 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。
ガラテヤ
2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
その私たちの内におられる神が私たちの為に祈ってくれている。しかもうめきをもって祈っている。
うめき それは苦難の中、苦しみの中、苦悩の中から出てくるものだ。御霊がうめくということは、私たちが苦しみうめいている、その時に御霊が私たちの内におられるということだ。
順風満帆にことが運ぶということだけが神の業ではない。うまくことが運ぶ時にはそれは神の助けで、うまく行かない時は神はそこにはいない、と思いがち。しかし実はそうではない。うまくいかない人生を共に歩み、共にうめくそれが神の業なのだ。
奇跡的に事態が好転することは人は求める。それこそが神の業であると思う。どうしてそうならないのか、どうして神は私を放っておくのか、本当の神なら、神がここにいるなら、私を救ってみろ、奇跡を起こしてみろ、と思う。私たちの病気をなおしてみろ、私たちの心配を取り去ってみろ、この大変な状態を解決してみろ、と思う。もちろんしてみろではなく、してください。というのだが。しかし実際にはそう奇跡は起きない。神はそういう仕方で私たちとかかわっているのではないらしい。
神はいない、少なくとも私のところにはいない、私の祈りは聞かれない、私は神に聞かれる祈りが出来ない、奇跡を起こす信仰がない、と思う。
しかしそういううめきを神はしっかりと聞いている、と言うことだ。うめく私たちと同じように御霊がうめいている、そしてとりなして下さっているというのだ。つまり苦しみとともに生きることが出来るように、苦しみのある中でも、そこで生きるように、その力を与えると言う仕方で私たちとかかわっておられるようだ。
神は私たちのどんな愚痴をも聞くという仕方で私たちと関わっているのかもしれない。何かで、愚痴が言えるということがとても大事だ、と聞いた。私たちがうめく時、その時にも私たちは一人ではない。苦しみうめく時にも神の霊は私たちのうちにいる。そして共にうめいている。苦しみの中でも私たちが生きるように、苦しみをも受け止めることが出来るように、苦しみを乗り越えることが出来るように、と執り成してくれている。