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礼拝メッセージより
説教題:「大地を守る」 2004年6月13日
聖書:創世記 2章4a-17節
創造物語
創世記には二つの創造物語がある。2章4節後半からは二つめの創造物語が始まる。一つめの創造物語は神は天と地を創造した、という言葉から始まっているが、二つめは地と天を造るというふうに天と地が反対になっている。またそれまでは神と言われていたのが、ここからは主なる神と言われれている。
一つめの創造物語では、神は何々あれ、と言う言葉によって創造したと書かれているが、二つめで人を造る時はまるで神が粘土をこねたかのように創造したと書かれている。どっちが正しいとかということではなく、それぞれの物語を通して神と人間との関係を言おうとしているということだろう。
命の息
二つめの創造物語では、まず神は人を造ったという。しかも土の塵で造り、その鼻に命の息を吹き入れられたという。土はヘブライ語でアダーマーというらしくて、アダーマーから造ったからアーダーム、アダム、それが人であったということだ。命の息を吹き入れられたのは人間だけであって、人間は神の声を聞き、神の命令を守る、そんな風に神との関係の中で生きていくように造られているということなんだろう。そして神はその人を東の方のエデンに園を造ってそこに置いて、そこにはいろんな実をつける木を造った。そして人にその園を耕し守るようにされた、と言うのだ。つまりこの大地、この世界をしっかりと管理し守ること、それが命の息を吹き入れられた人間が神から与えられた大事な務めなのだというわけだ。
しかしその後人は神の命令に背いたため、エデンの園から追い出され、食べ物を得るために苦しむ者となってしまう。神の命令に背いた人間ではあったが、そんな人間にも神は見捨てることなくどこまでも関わっていく、それがその後の聖書の語ることでもある。
兎に角、大地を守る、管理することは人間が一番初めて神から託された務めであるということだ。けれども今の状況は、人間が大地、環境をきちんと管理できてはいない。
風の谷のナウシカ
風の谷のナウシカというアニメの映画があった。
人間達が森を切り、水を汚し大地も汚し、挙句の果てに戦争でことごとく破壊を繰り返した。そして大地は腐海(ふかい)と呼ばれる猛毒を放つ木々が根を広げ、それを避けるようにして残った人々が暮らしている。
地上の多くは腐海(ふかい)と呼ばれる蟲(むし)が守る森に覆われている。障気(しょうき)マスクを付けないと五分で肺が腐ってしまう死の森、腐海。その腐海が発する毒を恐れながら人類は生きてきた。そして、人は幾度も腐海を焼き払おうと試みた。しかし、その度に王蟲(オーム)の群れが押し寄せ、そして腐海は広がった。
実はその森は大地を浄化していた、というのだ。そのことにずっと気づかないでその森を焼き払おうとしてたけれども、その邪魔なものと思っていた森が本当は自分たちを守ってくれていた、そのことに主人公のナウシカが気づいて世界を守っていくという話し。
まるで今の地球の有り様と似ている気がする。自然をどんどん壊してきた。海岸線はどんどん埋め立ててきた。干潟があるような浅い所は特に埋め立てやすかったのだろう。今の日本では見渡す限り自然の海岸線なんてところを見つけることの方が難しいような気がする。干潟なんて残していたって渡り鳥が喜ぶだけだから、埋め立ててそこに大きな工場とか大きな店とか作った方が人間の役に立つ、と思っていたのではないかと想像する。そうやって人間の都合のいいように大地を作り替えてきた。ところが大して役に立たないと思っていた干潟が実は海を浄化していた、きれいにしていたのだそうだ。人間は一方では汚れた水を海に流しながら、もう一方ではその海をきれいにする干潟をどんどんなくしていった。それが近代の人間の有り様だった。けれどもそうやってどんどん自然を壊していくことでいろんな弊害が出てきた。
森を焼き払おうとするとオームがやってくるように、自然を壊すことで人間もいろんなしっぺ返しを食らってきた。海も空気も汚れてきて、そして人間の体に変調がきて初めてこれはまずいということになってきた。そうなって初めて干潟を守らねば、自然を守らねばということに気づくという人が大半だったのだろう。それでもやっぱり開発だと言う人もまだまだいっぱいいるけれど。
聖書は、大地を守るようにというのが神からの命令であると告げている。決して自分の都合で、自分勝手にやっていいとは言わない。しかし近代になって人はいろんな技術やいろんな力を持つようになり、地球も変えてしまうような力も持つようになった。そこで人は神を信じるなんてのは力のなかった過去の人間の産物だと思うようになった。おれたちにはこんな力がある、海を陸に変える力もある、すばらしいこの力で自分たちの地球を自分たちの住みやすいように変えよう、神を信じる必要もない、神の声を聞く必要もない、自分たちには智恵も力もあるのだ、そう思ってきたのではないか。
けれどもその結果が海を汚し空気を汚し、安全な食べ物を手に入れることもだんだんと難しい状況になってきている。環境ホルモンとかアレルギーとか、いろんな問題が起こってきている。
自分たちが住みやすい世界を作っているはずだったのに、気が付くとずっと住みにくい世界になってしまっている。あるいはお金をもうけるためには少々の犠牲は仕方ない、金持ちになればいい生活ができるのだから、ということでもあったのかもしれない。ところがお金で買えない大事なものまで人間はどんどんなくしてしまっている。
聖書は、神の命令に背くことから人は苦労して食べ物を手に入れなくてはならなくなったことが書かれている。神から離れることから苦しみが起こることが書かれている。それは今の私たちにもそのまま当てはまることなのだろう。 人間はやはり神にはなれない。日本では偉い人をまつって神として拝むということがあってそういう点では神になれるような気がするが、聖書の神のように、天も地も造ったそのような神には人間はなれない。天地の全てを把握することもできない。人間とはそんな生き物である。いろんな技術も力も持つようになった、けれでも所詮は人間は人間なのだ。聖書が言うように、飽くまでも神に造られた者なのだ。だから神から離れること、神の命令に背くこと、それは人間の進むべき道を放棄することなのだ。結局はそれは自分自身を苦しめることにしかならない。神の声を聞き、神の命令を聞く、それが自分を守り自分を大事にしていくことにもなる。
最近のいい車にはナビがついている。衛星からの電波をキャッチして自分がどこにいるかを知ることができる。そして自分の行きたいところを入力すると一番いいルートを教えてくれて、次の交差点を左折して下さい、なんて言ってくれるらしい。間違って左折しなかったら、今度はそこからまた新しいルートをすぐに探してくれるそうだ。
神の命令、神の言葉を聞いていくということはナビで衛星からの電波を受け取ることに似ていると思う。神の言葉は、私たちが生きていく上での進む方向を教えてくれる言葉でもあると思う。
大地を守るようにというのが神の命令だった。結局はそれは人間自身をも守ることなのだろう。自然に刃向かうのではなく、自然の中で生きるように、人間はそもそもそのように造られている、それが聖書が告げることでもある。
自然を大事にすることは、世界を大事にすること、世界中の人を大事にすること、隣人を大事にすることでもある。そして隣人を大事にすることは自分を大事にすることでもある。人間は自然との関係、隣人との関係の中で生きている。その関係を大事にしなさい、そして神との関係を大事にしなさい、それは聖書が一貫して告げていることだ。だからこの神の言葉を大事に聞いていこう。