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礼拝メッセージより
説教題:「違い」 2004年5月30日
聖書:創世記 11章1-9節
バビロニア
シンアルとはバビロニア地方、チグリス・ユーフラテス川が流れる地。そこに大きな帝国を作ろうとしている人間の話し。そこには紀元前3千年ころからジグラットというピラミッドが作られていたそうだ。
大帝国を作り、その立派さを象徴するような大きな塔を建てようとする。れんがは、エジプトで作るような天日で乾かすのとは違って、火で焼く質のよういものがあったそうだ。そしてそれをアスファルトを接着剤として重ねていったらしい。石は山から切り出してこなければいけないが、レンガならば粘土を焼けば同じかたちのものがつくれて積み重ねるのも簡単になるようだ。つまり技術革新があって大きな建物もつくることができるようになった。そこで人々は「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全知に散らされることのないようにしよう」と言った。
ところが主はそれを見て、みんなが同じ言葉を話しているから、こんな悪いことを始めたのだ、と言って言葉を混乱させた。そうすると言葉が通じないので町の建設を続けることが出来なくなって全知に散らされた。そういう話しだ。
一つ
天まで届く塔のある町を建て有名になろう、ということはどういうことだったのか。神のいる天にまで塔を建てて神に近づこう、ほとんど神と同じになろうとしたということだろうか。そして俺はこんなにすごいぞということを誇ろうということだろう。
しかしそんな人間の思いを神は打ち砕いてしまう。人は多かれ少なかれ誰でも、私はこんなことが出来る、こんなにすごいのだと誇りたいという気持を持っているだろう。こんなにすごいものができたじゃないか、俺たちはすごいぞ、ということだろうか。天に届く塔を作り、自分たちが神と同じ力を持っていることを見せようとしているようだ。神は必要ない、神などいなくても自分たちで何でもできるということなのだろう。
この町は一つの民で一つの言葉を話している、と書かれている。この地方がバビロニアだとすると一民族一言語ということは疑わしいそうだ。だいたい大帝国を作るときにはいろんな民族いろんな言語の人たちが含まれていく。しかしそれが一つの言葉であるということは、無理矢理ある一つの言葉を使わせようとしたということがあったのではないかと考えられる。強制的にこの言葉を使え、ということがあったのではないか。
かつて日本も戦争の時には台湾や韓国の人たちに日本語を強制したことがあった。大きな国を作ろうとするとき、権力者はその国を一色に染めようとすることが多い。権力が集中してしまうと、独裁的な人が現われ、違う意見を認めなくなることがよくある。そしていろんなことを強制する。違うことを考えることも許さないというようなこともある。
神が一つの言葉でいることをよくないと言ったのは、人間を無理矢理に一つにしてしまうことを神はよしとしない、ということでもあるのかもしれない。
もともと人間は同じではない。同じに造られていない。みんな顔も性格も違う。それがみんな同じ、一つの言葉、一つの考え、一つの気持であるということはどこかで無理をしているか、無理をさせられているということだろう。権力者は庶民を自分の思い通りにさせたがる。バッジをつけさせたり、いろんなところに権力者の写真を飾るという国がある。あれを見ていると変だなと思う。でも日本でも、学校の式典には正面に日の丸を掲げて起立して君が代を歌わない先生は罰せられるそうだ。国家議員の中にも日の丸のバッジを付けている人がいて、それを見ていると日の丸、君が代は日本のバッジのような気がしてきた。付けることが悪いというわけではなく、それを強制して従わないものを罰するというのは、バベルが一つの民で一つの言葉であったように、日本の国民はこうするのだと無理矢理に一つにしようとしていることととても似ているような気がする。
散らす
人は散らされることをおそれ塔を作ったという。天まで届く塔のある町を建て、有名になり、全地に散らされることのない様にしようとした。どうして人は散らされることを恐れたのだろう。集まっていないと不安だったのだろうか。
人はいろんなことが出来る。いろんな大きな建造物を造ることもできる。しかし人には自分の心ひとつどうにもできないこともある。もし人が自分の力だけで生きなければならないとしたならばどうだろう。その力が十分になければならない。その力がどれほどあるか、という不安が出てくる。天に届く塔を作るというのは、そんな力がこんなに自分たちにはあるのだということを目に見える形にして、それを見ることで安心しようとする思いがあるということなのかもしれない。
私たちが生きていくときにもいろんな不安がある。このままでいいのだろうかという不安は誰もが持っているだろう。こんな自分で大丈夫なのだろうか、生きていくための力が本当にあるのだろうか、という不安があるのではないか。十分に力があると思えるときは不安もあまりないだろうが、十分ではないかも知れないという思いになるとき、こんな自分では駄目だと思うときには不安になり、なにかで安心したいという思いになる。そんな時これまで自分が上げてきた功績によって安心したいと思うかもしれない。こんなすごいことができてるじゃないか、という思いを持つことで安心しようとする。安心を得るために必死でいろんなことをするということもある。いろんな活動をして名をあげようとする、そのことで安心を得ようとする。自分はこんなにできるんだということで安心しようとする。表彰状や免許状を部屋に飾っている人も多い。それを見ることで自分にはこんなにすごいこともある、と安心することが確かにある。こんなにやってきたんです、ということをみんなに自慢してないと、そしてすごいですねえ、偉いですねえと言われないと安心できないような人もいる。
しかし神はそんな思いをうち砕く。神は散らされる。自分の力に頼ることを、あるいは自分たちの業績に頼ろうとする者を散らされる。それは自分の力に頼るのではなく神を見つめるようにということなのではないかと思う。
自分の力に頼ることで安心を得ようとするのではなく、神を信じることで安心を得るようにということを願っているのではないか。
違い
神は人を散らされた。それは神の裁きでもある。しかしそれはまたそれぞれのところで生きるようにという神の導きでもある。一つの言葉に無理矢理にまとめられることでもなく、それぞれの言葉で生きるように、その人自身の場所で生きるようにということでもあるのだろう。それぞれ違いのあるままに、その違いのある上で生きるようにということなのだろう。
誰かと同じようにならないといけないわけでもなく、誰かと違っていることが劣っていると思う必要もない。それぞれに立たせられている自分の場所で生きるようにということなのだろう。そしてまたそこで神を見るようにということだろう。それは自分の本当の姿をみるように、ということでもあるように思う。自分の無力さをしっかりと見つめるようにということでもあるのだろう。一人だけでは生きていけないという自分をしっかりと見つめるように、そしてそこから神を見上げるようにということなのではないか。
安心は自分に力を蓄えるところにあるのではなく、功績をいっぱい積み上げるところにあるのでもなく、神を見上げるところ、神と共に生きるところにある、ということだろう。