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礼拝メッセージより
説教題:「祝福」 2004年5月23日
聖書:創世記 9章8-17節
洪水
人間の堕落を見かねた神は地上に洪水を起こして地上の一切のものを滅ぼすことにしたことが6章位から書かれている。ただノアの造った箱舟に乗ったものだけは助かった。
40日間雨が降り続き、洪水が起き、水が引くまでノアは1年近く箱舟の中にいることになる。
産めよ、増えよ、地に満ちよ。
渇いた土地に出てきたノア達に向かって、神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という天地創造の時に語った言葉を語る。それは人を祝福する言葉だ。
神に逆らい、神に反逆し続けていた人間を一度は全部滅ぼそうとした神は、今度また祝福する。創世記によると、人は最初から神に逆らってばかり、神の命令に背いてばかりである。神が人を造ったのだからそんな出来損ないは全部無くしてしまった方がよっぽど早い話だと思う。しかし神はそうしない。全部滅ぼそうとしつつ、ノアの家族は残す。
契約
そしてすべての生き物と契約する。それは、もう二度と洪水を起こして地を滅ぼすことはしない、というものだった。そのしるしは雲の中に虹をおくことである、という。
契約とは言っても神からの一方的な契約である。神は地を滅ぼすことはしないというが、それに対して地に住むものがすべき事柄はなにもない。条件が何もない。これこれこういう悪いことをしなければとか、こういう風な良いことをすれば、というような条件が何もない。ただ、もう二度と洪水は起こさない、地を滅ぼすことはない、というのだ。ということは何が起ころうと、地上の者がどんな風になろうと、洪水は起こさない、ということだ。
私たちがどれほど悪い者であっても、罪深い者となっても、洪水を起こして全部ほろぼすような事はない、という。そして神はその言葉通りを行っているようだ。
神は私たちが罪を犯すかどうかを見張ってそれを懲らしめようと待ち構えている訳ではない。罪を見つけたらすぐに罰してやろうとしている訳ではない。そうではなく、神は私たちの罪を赦そうとしているのだ。罪の罰を私たちが受ける必要がないようにしたのだ。罰をイエス・キリストが受けることで、十字架で死ぬことで、私たちの罪を帳消しにしてしまったのだ。そういう風にして私たちを赦すことにしたのだ。
悪い人間を、罪深い人間を滅ぼすという方法ではなく、その罪をイエス・キリストが精算する、イエス・キリストがその罰を全部負うという方法をとったのだ。
人間を滅ぼすことはしない、といった神は、人間をそういう風にして赦すことにしたのだ。
血
神は、人の血が流されるときにその賠償を要求するという。血に命があると考えられていたらしいが、人の命が失われることに対して神は賠償を要求するというのだ。それは人の命がそれほどに大事なものであるということだろう。人ひとりの命ぐらい大したことではない、とは神は言わないのだ。神が人の命を、ひとりの命を大事なものであると見ているということだろう。
虹
神は契約のしるしに虹をおくという。
虹とは弓矢の弓という意味も持っている言葉だそうだ。英語では虹のことをrainbow という。これも rain とbow を別々に訳すと雨の弓になる。武器となるその弓をおく、ということは手に武器を持たない、というふうに考えることもできるそうだ。雨の中に虹が現れるとき、それは神が弓を手放しているというしるしという風にも考えることができる。神が私たちに向かって弓を引いてはいない、私たちの罪を見つけて矢を放とうとしてはいない、というしるしでもあるということだろう。
変化
洪水の後、やはり人間は罪を犯し続ける。ノアも直後に酔っぱらって裸で寝ていたと書かれている。ノアは神の言葉を聞く人であった。しかしその後の人間たちを見てみると、洪水の後になっても立派な人間ばかりになったわけではない。相変わらず悪いことを考える罪人ばかりである。しかし神はその人間をもう滅ぼすようなことはしないというのだ。人間側は本質的に何にも変わりがないようだ。しかし神はもう滅ぼさないという風に変わった。神の方が変わった。一度は洪水を起こしたが、もう二度と起こさないというのだ。何があろうと起こさないというのだ。
「6:5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6:6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」神が、今度は「8:21人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。」と変わっている。
人が悪いことを考えることは変わってはいない。しかしその人に対する神の思いは全く変わっている。神ってのはどこかに鎮座ましまして全く動かないもののようなイメージがあるが、聖書の神はそうではないらしい。
神の言葉を聞かず反逆する者に対して、神の前から遙か彼方へ追い出してしまうというような仕方ではなく、逆に神の方からどんどん人に近づいていくという仕方で接していくことにしたかのようだ。
関心
神は天地を作り人を造った。しかし人は神の言葉に従わずエデンの園から追い出されてしまう。しかしその人のところへ神が出てきてまた関わっている。そこでまた神の言葉に逆らっても、またその逆らうものに関わっていく。全部滅ぼしてしまえばすっきりすると思うのにそれもしないでやっぱり関わっていく。人の悪は結局はなくならない、罪はなくならない、神は結局は人のその罪を赦すことにしたわけだ。
いつまでたっても相変わらず自分の言葉に従わない罪深い人間のために救いを用意する。そうまでして神は人に関わり続けている。これからはずっと人間の味方になろうとしているようだ。
こんな話を聞いたことがある。
高校生だったか二人の若者が盗みをした。誘われてついてついていった方の親はそれを聞いて、やっぱりしたか、いつかお前はそんなことをするだろうと思っていた、と言った。もう一人の主犯格の親は、お前は本当はそんなことをする人間ではない、と言うようなことを言ったそうだ。主犯格の若者は盗みをするようなことはなくなり、やっぱりといわれた若者は犯罪を犯し刑務所に行くようになったそうだ。
泥棒の親は盗みが見つかった子どもに対して、どうして見つかったのかと言って怒り、その子は立派な泥棒になったなんてことも聞いたことがある。
お前はそうなのだ、といわれることで実際にそうなってくるらしい。お前は泥棒になると言われることで泥棒になり、泥棒じゃないと言われることでならなくなるような面がある。
お前が大事だと言われることで、そう扱われることで人は大事なものとなってくるらしい。自分の大事さは他の者から大事にされることで生まれてくるようだ。
神は人の罪を責め糾弾すること、罰を負わすことをすることはしないと決めたという。そうではなく、お前を罰しない、罰はキリストが負う、そうやってお前を赦す、お前は私にとって大事なのだ、と言う。
お前は大事な私の民なのだ、神の民なのだ、だから神の民らしく生きなさい、と神は私たちにも言われている。あなた達には罪も悪もある、しかしその罪をキリストにおいて赦す、だから安心して私と共に生きなさい、私の言葉を聞いて生きなさい、神はそう言われている。