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礼拝メッセージより
説教題:「どこに」 2004年5月9日
聖書:創世記 3章1-21節
交わり
2章で、神は人がひとりでいるのはよくない、と言って助ける者を造られた。人は人との交わりのある中で生きるものであることを言われた。そして今日の3章では、神との交わりについて書かれている。
エデンの園
人は神が用意されたエデンの園に住んでいた。そして神は、「園の全ての木から取って食べなさい。ただし善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われていた。
ところが蛇が女に、「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と聞いてきた。しかし神が言ったのは、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言った。神はどの木からも食べなさい、ただし善悪の知識の木からは食べるな、と言ったのに、蛇はどの木からも食べてはいけないと言ったのか、と問いかけた。蛇はしてはいけないということに注目させたのかもしれない。神が何もかも禁止する厳しい方であると言わんばかりである。
女は「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えた。女の答えは神の命令と似てはいるが少し違っている。神は触れてもいけない、とは言っていない。伝言ゲームのように少しずつ違ってきている。
すると蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」なんて言う。それは神の命令に背くことを勧めている言葉ではある。
判断
女はその木を見て、いかにもおいしそうで、目を引きつけ、賢くなるように唆していたというのだ。そこでその木の実を食べ、男にも渡したので彼も食べたというのだ。神の命令に背いてしまった。神の命令を、これはしてはならないと言う命令を、自分の判断で破ってしまったのだ。死ぬから食べるな、生きるために食べるなという神の言葉に背いてしまったのだ。
二人は目が開け、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。人は善悪を知る者となった。そして自分を隠さねばならなくなった。
どこにいるのか
二人は神から自分自身を隠さなければならない者となってしまった。神との交わりを人の方から避けねばならないことになってしまったのだ。神の目からは隠れようはないのだろうが、それでも隠れないではいられないということだろうか。
神はそんな二人に語りかける。「どこにいるのか」。アダムは裸だから、神が恐ろしくなって隠れたと答えた。神の命令に背いたことで神が恐ろしくなってしまったわけだ。
口実
神は「食べるなと命じた木から食べたのか」と聞く。アダムは女が木からとって与えたので食べた、と答える。それは女のせいであるという責任転嫁。そして更に、あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女と言う。ということはそういうふうに共にいるようにさせた、そんな女を造った神にも責任の一端がある、ということを言おうとしているということだろう。
女も、蛇がだましたので食べたといった。二人とも自分が悪かったということを認めない。
苦しみ
神は女に向かって、お前は苦しんで子を産む、お前は男を求めお前を支配する、という。またアダムに向かって、お前は生涯食べ物を得ようとして苦しむ、額に汗を流してパンを得る、という。
人間の苦しみの原因はここにあるということだろう。つまり罪を犯したから、神の命令に従わなかったから苦しむことになったのだということだ。
人は神の命令に背いた。それが罪であった。そこに罪がある。それこそが罪。神の命令に背くことこそ罪。神の命令を守らない事こそが罪。
そこで神から遠く離さえてしまうことになった。そして苦しみのある人生を送ることになった。
どうしてこんな苦しみの中を生きねばならないのかと思う。その原因を知りたくなる。そしてその原因をここは語っているのではないか。それは人が神の命令に背いたこと。最初の人間からしてそうだったということ、生まれながらにしてすべての人間は神の命令に背くような性質を持っている、ということだろう。
神の命令を疑い、誰かの声によって否定する。そしてその神の言葉に従わなくても大丈夫だろう、大したことも起きないだろうという思いを持つ。そしてその神の命令を曲げて、その命令に背く。
交わり
しかし神は命令に背いてしまった人間に対して語りかける。神の命令を拒否し、神の命令よりも自分の判断を優先させてしまった人間に語りかける。罪を犯した人間に、罪を持った人間に語りかける。人との交わりを尚も持とうとする。
しかし人は神からの「どこにいるのか」という声にもまともに答えてはいない。ここにいます、ということは言ってはいない。しかしそんな人のために、神は皮の衣を作って着せられたというのだ。エデンの園を追放しようというその二人のために皮の衣を作ったというのだ。
神は神の命令に背き、罪を犯した人間にも語りかける。どこにいるのか、木の実を食べたのか、と。その問いかけにそのまま答えることを期待して語りかけているのではないか。裸であっても、罪を犯しても命令に背いていても、神の声に応えて神の前にでることを願って語りかけているのではないか。隠れてしまうのではなく、責任転嫁するのでもなく、恥ずかしい思いを持ったままで、間違ったことをしてしまった、悪いことをしてしまった、という思いを持ったそのままで神の前に出ることを神は待っていたのではないか。神の呼びかけに正直に答えることを神は期待しておられたのではないか。
罪を持つ人間にも神は語りかけておられるのだ。そんな人間との交わりをも神は求めておられるのだ。
自己保身
私たちも、本当は自分が悪いのに、いろんなことを人のせいにしたり、周りのせいにしたりすることが多いのではないか。何処にいるのか、という神の声をまともに聞かずに、ちょっと調子が悪いから、ちょっと忙しいから、なんてことを言っているのかもしれない。あるいは神の命令に対しても、あいつがあんなことをしたから、社会が悪いからできない、と言って、いろんな理由を付けて神の言葉を聞かないようにしているのかもしれない。
しかし神の命令を破ることで死んでしまうということになりかねないのが私たちの実状でもあるように思う。自分勝手な判断によって、自分の命が死の危険に見まわれてしまうこともあるのが現実ではないか。神の命令を守らないことでたとえ生きていても死んだようになってしまいかねない。
生きる
生きるために神の言葉を聞きなさい、神との交わりを大事にしなさい、神の前には自分を隠す必要なないのだ、ということを創世記は語っているように思う。
どこにいるのか、という神の問いかけに私たちはどう答えればいいのだろうか。ここで恐怖に震えています、淋しくてここで泣いています、苦しくてここでうめいています、不安で不安でうろたえています、ということだろうか。
ここにいます、と応える、そんな神との交わりの中に私たちのいのちがある。誘惑にかられて、してはいけないことをするところにではなく、ここにいます、と神に応える、そんな神との交わりの中に私たちの命があるのだろう。
どこにいるのか、と神は私たちにも語りかけてくれているのではないか。そこで私たちはどこにいるのかをもう一度考え、自分の居場所を再確認する、それは私たちを命へと呼び戻す神の言葉であると思う。あの人がどうした、この人はどうだ、自分のまわりはどうだ、あそこがいいとか悪いとか、私たちはつい周りのことに目を奪われる。しかし私たちは自分のことをしっかりと見つめないといけないと思う。自分はどうなのか自分は何処にいるのか。何処にいるのか、という神の問いかけはそのことを再確認するようにという神からのメッセージかもしれない。あなたは今どこで何をしているのか、神はそう私たちに呼びかけておられるのではないか。