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礼拝メッセージより
説教題:「光あれ」 2004年4月18日
聖書:創世記 1章1-23節
創世記
聖書の最初に創世記がある。神が天地を創造したことが書かれている。科学的にその通りだと思う必要はないだろう。聖書は科学的な文書ではない。そうではなく、神と世界、神と人との関係を現すものだ。科学は目に見える現象を解明していく。宇宙はどれくらいの大きさで、どれくらい星があって、とか、人間は精子と卵子が結合して、どうやって分裂して人間はどれくらい細胞があって、栄養はどういう風に吸収されて、どうやって体が動いて、というようなことを解明していく。しかし聖書はそれとは別の見方、いわば目に見えないところ、この世界はなぜ存在するのか、人間はなぜここにいるのか、自分はなぜここにいるのか、というような科学とは別の切り口で書かれているものである。
だから聖書の創造物語を科学的にもこの通りだったのだ、という必要はないだろう。そもそもそんなことを説明しようとはしていない。
今から考えるとおかしいとおもうようなこともある。地球が世界の真ん中にいて、空には星の通り道があって、そこには水もあって、ときどきそこから水が落ちてくるのが雨である、というように当時の世界観、宇宙観が反映している。
バビロン
創世記には参考になる創造物語があったそうだ。
創世記がまとめられたのはバビロン補囚の時代。
かつて神に導かれてエジプトを脱出し約束の地へやってきた。どうにか自分たちの土地も確保した。ところがいつの間にか自分たちの国は滅ぼされ、国の主だった者たちはバビロニアという国へ連れてこられてしまった。そのバビロン補囚の苦しみの中で彼らは自分たちの過去を振り返った。自分たちの信仰を振り返った。自分たちはどういうものなのか、神と自分たちはどんな関係なのか、どうしてこんなことになってしまったのか、国が滅ぼされてしまうと言う極限状態の中で彼らはもう一度考えなおしたのだろう。創世記はそんな自分たちの反省の書でもあるのだろう。
そこでバビロンにあった創造物語を借りてきて、自分たちの神と自分たちの関係をそこにまとめた。バビロンの物語では、マルドゥクという神が混沌の怪物をやっつけて、その死体で世界を造り神々の支配者となるというようなことらしいが。
ことば
創世記を見ると、神は言葉によっていろんなものを造ったと書かれている。つまり天地はたまたまできたのではなく、神の意志によって出来たと言うことだ。光も水も生き物も星も人間も、神が造ろうとして造ったというのだ。科学的にみればあらゆるものは偶然できたということになるのだろうが、聖書では、信仰的にはあらゆるものは神の意志によってできたというのだ。それぞれに意味と目的があってできたということなのだろう。私たちひとりひとりも何かの目的のために造られたのだ。神によって造られた、だから神を信じる、神に聞いていく、神との関係を持って生きていくのだ。
神がいいものだから神としようというのではない。きれいなペンダントが見つかったから付けておこう、もっといいのが見つかったらそっちに替えよう、神を信じるというのはそんなペンダントとは違うのだ。つけておいたらかっこいいからつけておくというようなものではない。あるいは信じていればちょっと安心できるから、役に立つから信じるというものではない。神は天地のあらゆるものを造った神なのだ。天地のあらゆるものを支えている、だから信じるのだ。私たちが今ここにいるのはその神に造られたからだ、だから神に聞いて生きるのだ。
私たちは本当に神がいるのかどうか、というようなことを考えないといけない社会に生きている。しかし創世記は神がいるかどうかなんてことは全く問題にしない。この世界があるのは神が造ったからであり、神がいなければ世界も自分もあるわけがないということだ。
私たちの信じている神はそんな神なのだ。見えない所で天と地のあらゆるものを支えている神なのだ。
国を滅ぼされて、外国に連れてこられてしまったユダヤの人たちはそのことを忘れて、外国の神、見栄えが良くていかにも自分の立ちそうな神だったのかもしれないが、そっちの神の方を信じるようになってしまった。自分たちが闇の中にいるようなことになってしまったのは、本当の神から離れてしまったからだ、と気づいたのだろう。そこで本当の神に帰ろうとしてこの創世記をまとめたのだろう。
光あれ
光あれ、という言葉から創造は始まった。そこには混沌と闇があったわけだが、神の光あれの言葉によって光があった。バビロン時代のユダヤ人にとってその時代はまさに混沌と闇の時代だったことだろう。自分たちが築いてきたものが全部壊されてしまった、これから一体どんなことになるのかも分からない。将来の希望も持てない、そんな時代だった。しかし彼らはそこでもう一度神を見上げた。光あれ、という言葉によって光を造る神、自分たちの神はそんな神だった、言葉によって天地の全てを秩序正しく造っていくそんな神だった、そのことを彼らは思い出していたに違いない。そしてそこに希望を持ったことだろう。残された希望はそこだけ、だったのかもしれない。
混沌の世の中だ。社会も、家庭も、教会も混沌かもしれない。しかし神はそこに光あれ、と言われ光を造られる方なのだ。私たちの神はそんな神なのだ。