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礼拝メッセージより
説教題:「イエスの復活」 2004年4月11日
聖書:マタイによる福音書 28章1-10節
埋葬
ユダヤの一日は日没とともに終わる。そして次の一日が日没とともに始まる。
安息日が始まる前の日、つまり金曜日ににイエスは十字架に付けられた。そしてその日の夕方には墓に入れられた。27章57節からを見ると、アリマタヤ出身のヨセフという人がイエスの遺体を亜麻布に包んで墓に葬ったことが書かれている。遠くからイエスの十字架の処刑を見守っていた女の人達のことが27章55節に書かれているが、その内の二人が墓を見にいったことが61節に書かれている。
ユダヤ人たちが、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗んでおいて、イエスは復活したと言いふらさないように墓の石を封印して番兵もつけたことも書かれている。
墓に埋葬されたのが夕方であったということはその日がもうすぐ終わり、次の日が始まろうとしている時だった。次の日とは安息日で、安息日には労働をしてはいけない、決まった距離よりも遠くへは行ってはいけないという決まりがあったそうだ。そこで、安息日が終わってからマグダラのマリアともうひとりのマリアは墓に行くことにしたのだろう。
安息日
イエスが十字架で殺された次の日、その安息日はいわば沈黙の日だった。マルコによる福音書もその安息日のことは何も書かれていない。
イエスについてきた彼女たちにとってはつらい沈黙の続く一日であったに違いない。彼女たちは事の成り行きをずっと見守っていた。この数日の出来事を見ていた。そして、イエスが十字架で処刑されたことによって、どれほどのショックを受けたであろう。イエスは捕らえられ、事態は思わぬ悪いほうへと向かっていった。そして結局は最悪の結果となった。
しかし彼女たちはそこを去ろうとはしない。死んでしまったイエスにも関わり続けようとする。男たちはみんなそこを去ってしまった。彼らは気が動転して、また自分自身の身の危険を感じてか、その場所にいることができなかった。しかし彼女たちはどこか冷静である。あるいは強さがあるのかもしれない。地に足が付いている。マルコの福音書によると、彼女たちはイエスの遺体の処理を早くしなければ、という思いで安息日が終わるのを多分待ちかねて香料を買いにいっている。安息日が終わるのは日が暮れてからだから、日が暮れてから暗くなるまでのわずかの間に香料を買い夜を迎えたことだろう。そして夜が明けて明るくなるのを待ちわびて墓に向かって行ったのだろう。
石
しかし彼女たちにとってまだ大きな問題が残されていた。それは墓の入り口の石が封印されていて、番兵もついているということだった。番兵を説得して、石をどけてもわらないことには遺体の処理をすることはできない。彼女たちの計画はまるで実行できない。大きな問題を抱えてもなお彼女たちは動き出している。動かないではいられないと言った方が正確かも。
しかし、その時大きな地震が起こり、天使が石をわきへ転がしたという。そして、イエスは復活してここにはいない、かねて行っていたように復活したのだ、このことを弟子たちに告げなさい、なんてことを言う。婦人たちは恐れながらも大いに喜び、弟子たちに伝えるために走って行った。するとそこでイエスに出会ったというのだ。彼らにガリラヤへ行くように言いなさい、そこでわたしと会うことになる、と。
復活
イースターはイエスが復活した嬉しい日。そんな単純なものではないのかもしれない。イースターはびっくりし震え上がる日なのかもしれない。
イエスは復活なさった、と書かれている。しかし正確には復活させられた。神によって甦らされた。イエスは弱い人間のままで十字架で殺された。絶望の叫びをあげて。いかにもうちひしがれて、と言った有り様だった。
イエスはその絶望するような状況を自分で振り切って自分の力で復活した、と聖書は言っていない。復活させられた、と言っている。神によって復活させられた、と言っている。そこまでただの人間でありつづけたということだろう。
イエスがどのように復活させられたのか、よくは分からない。どんな形で復活させられたのかもよく分からない。肉体をもってなのか、それとも幽霊みたいなのか、よくは分からない。しかしよくは分からないが復活のイエスは自分について来ていた女たちや弟子たちに会ったことが福音書に記されている。
そしてそのことから弟子たちは元気になっていった。彼らは絶望していた。神よ、どうして私を見捨てたのかと叫んだのは十字架上のイエスだけではなく、弟子たちも同じだったのかもしれない。仕事を捨ててイエスに従っていたのだ。イエスの呼びかけに応えて、弟子となることを誇りに思ってついてきていたのだろう。いろんなイエスの奇跡も目撃し、イエスの言葉に諭されたり感動したりしながら、この人は偉大な人だという気持ちもだんだんと大きくなっていたに違いないと思う。ところがその自分たちの師匠が、実質的に社会を牛耳っていたユダヤ教の指導者たちの反感を買い、神を冒涜した、社会を混乱させたということで捕まり、十字架につけられて、強盗と同じように処刑されてしまったのだ。
世の中を正すと思っていた師匠がつかまってしまい、自分たちも社会の反逆グループ、いわば非国民のグループということになってしまったわけだ。彼らは密かに逃げるしかなかった。そこで立ち向かっていく力などとてもなかった。どうしてこんなことになってしまったのか、弟子たちはそんな気分だったのではないか。
しかし神はイエスを復活させた。そしてそのイエスに出会った弟子たちは再び立ち上がった。父なる神は十字架の上で絶望したイエスを神は復活させ、さらに十字架の下で絶望した弟子たち復活させた。復活のイエスとの出会いが弟子たちにとっての復活だった。
イエスは復活させられた。死からも復活された。イエスを縛りつけるものは何もないことが明らかにされた。
しかしそのイエスとの出会いがなければそれはただの不思議な話に終わってしまう。イエスと出会うことで弟子たちにとっての復活があったように、私たちもイエスと出会うことで初めて私たちにとっての復活、イースターがやってくるのではないだろうか。
私たちは今、顔と顔を合わせるようにイエスと会うことはできないだろう。しかし私たちは聖書を通して、イエスの言葉を聞くことを通してイエスに出会うことができるのだと思う。イエスの言葉が私たちの心の中にあるとき、イエスは私たちの心の中に生きているようなものだ。
復活
イエスは、婦人たちに伝言を伝えた。それはイエスは先にガリラヤへ行かれるということだった。ガリラヤ、そこは弟子たちにとって生まれ育った所、またイエスについて行って活動した場所。かつてのイエスと生活を共にした場所。イエスの行動を見て、またイエスの言葉を聞いてきた所である。そこでまたお目にかかれる、と天使は告げる。それは生前のイエスを知ることが復活のイエスを知ることでもあるということではないか。イエスのすがた、イエスのことばを再認識すること、そのことがイエスと再び出会うということでもあるのだろう。
そしてまたガリラヤは弟子たちが逃げ帰って行く故郷でもあった。イエスを見捨てて逃げて行く所でもあった。落ちぶれて帰って行く場所でもあった。そこしか帰るところはなかった。しかしイエスはそこにも先に行かれるという。自分の駄目さを嘆き失望し挫折し、そして人目を避けて逃げ帰って行く所、そこにイエスは先に来ている、そこで待っているというのだ。
イエスは私たちと共にいるために復活させられた。落ち込み、絶望し、うつむいて逃げていく、そこでイエスは待っていてくれる。どんな時でも、いつまでも私たちと共にいるために、イエスは復活させられた。私たちが死にそうな時でも、死んだ後でも共にいるためにイエスは復活させられたのだ。
人は死んだ後どうなるのか、どこに行くのか。私たちには分からない。死とは何なのか、そして生きるとは何なのか、分かったようなつもりでいるがよく考えると分からないことだらけだ。しかし死を前にして私たちは全く無力である。誰でも死ぬことはなんとなく分かっている。私たちの祖先たちもみんな死んでいる。得体の知れない闇が待ちかまえているような恐怖がある。
しかしイエスは死んで復活させられたという。イエスは死に呑み込まれたままではなかった。反対にイエスは死をも呑み込んでしまった。この神は、生きることも死ぬことも含めて全てを支配している、そんな神なのだ。その神を私たちは信じている。そこに私たちの希望がある。
すでに引退しているある牧師がこんなことを言ったそうだ。私は教会で葬儀がある時など、亡くなって天国に行ったときには、先に亡くなった家族に会えますよ、親しかった方にも会えますよと説教してきた。でもそれは間違っていた。天国に行けばイエス様に会えますよ、と語るべきだった。
死んだ後どうなるかよくわからない、けれどもそこも神の支配しているところ、イエスの支配しているところ、そこでイエスに会うことができる、先に亡くなった方たちもきっとそんな希望をもって生き、そして亡くなったことだろう。
召天者記念礼拝だが、この方たちが天国へ行けるようにお祈りするための礼拝ではない。そんな必要はない。そうではなく、召天者の方たちが信じた神を一緒に見上げるため、召天者の方たちが聞いたイエスの言葉を一緒に聞くために集まっている。
生きているうちにはいろんなことがある。真っ暗闇に包まれるようなこともある。絶望するようなこともある。
しかし、すべてが暗闇に包まれてしまうような、そんな時にも、絶望することはない、私がついている、私があなたと共にいる、死を通り抜けてきた、死をも支配している私が一緒にいる、イエスは私たちにもそう語りかけてくれている。
先に召された方たちは、今もこのイエスの支配の中にいる、イエスと共にいる。私たちもやがてそこに行く、その希望を持って生きていきたいと思う。