前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「休み」 2004年4月25日
聖書:創世記 1章24-2章4a節
完成
神は6日目に地の獣、家畜、土を這うものを造り、そして最後に神にかたどり、神に似せて人を造った。神はどんなかたちなのか、神にはかたちはないのに、それに似せたというのはどういうことなのか。それは神の言葉を聞いていく者として、神との関係を持って生きる者として造られたということでもあるだろうし、人間を自分と同じように大事な者として造ったということでもあるのだろう。また神が人を愛するように、神を愛し人を愛するものとして造ったということでもあるのだと思う。そして神の造られたものは、全てが極めて良かったというのだ。そういう風に神と通じ合う者として造られたものが、神から離れてしまうこと、それこそが罪ということになる。
神は6日までに天地を創造した。そして7日目に休まれたと言う。7日目が完成の日であるというのだ。6日までで天地万物は完成された。しかし神の仕事は7日目で完成となった。しかもその7日目というのは仕事を離れて安息した日だと言うのだ。
なんだか妙な気がする。普通ものが出来てしまった時が完成なのではないか。完成した時が仕事の終わりでもあり、6日目で創造の話は終わり、となるはずのように思う。ところが創造物語は7日まであるのだ。休んだ、安息した日までが創造物語に入っているということだ。何なのだろう。
いこい
出エジプト31:12-17に安息日に関することが出てくる。「主はモーセに言われた。あなたは、イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。あなたたちは、わたしの安息日を守らねばならない。それは、代々にわたってわたしとあなたたちとの間のしるしであり、わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るためのものである。安息日を守りなさい。それは、あなたたちにとって聖なる日である。それを汚す者は必ず死刑に処せられる。だれでもこの日に仕事をする者は、民の中から断たれる。六日の間は仕事をすることができるが、七日目は、主の聖なる、最も厳かな安息日である。だれでも安息日に仕事をする者は必ず死刑に処せられる。イスラエルの人々は安息日を守り、それを代々にわたって永遠の契約としなさい。これは、永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。主は六日の間に天地を創造し、七日目に御業をやめて憩われたからである。」
これはモーセが神から十戒を授けられる時の話し。この中で神は、イスラエルの民が安息日を守らねばならないということを語る。そしてそれは、神が天地を創造したときに、6日間で造り、7日目に憩われたからだ、と言われている。創造の業を終えて憩われたというのだ。7日目は仕事を完成して憩う日であるというのだ。だからあなた達も休め、憩えというのだ。
おまけ
休むことは悪いことのように思ってしまう気持ちがある。忙しく動き回っていることで落ち着くような面がある。休みはいっぱい働いた人に与えられる褒美のような気持ちがある。だからろくに働いていない、まだ働きが足らない自分には本当は休む権利がないような気持ちがある。だから休むときもなんだか後ろめたい気持ちがあって、それで余計にゆっくり休めない。
休めているか
仕事を完成していれば休めるかもしれない。しかし完成しない、この日の務めはこれで終わり、という風に出来ていなければゆっくり休むことも、ゆっくり眠ることも出来ない。やり残したことがあるとき、そのことを断ち切ることが出来なくなる。いつも頭の中にやらねばならないのに出来ていないことが渦巻いているなんてことがある。踏ん切りがつかなくて夜中までもやめられないで、それも眠くなって起きていられなってはじめてやめるなんてこともある。
ここに出てくる休むという言葉には、やめるとか離れる、絶つなんていう意味があるらしいが、何かをやめられない、離れられないでいつもいつも背負い込んだままというのが私たちの実状のように思う。
命令
十戒にも安息日を大事にするようにと言われている。休め、と命令されている。神も休んだのだからあなた達も休みなさいということのようだ。自分の務めからその日には離れなさいということだ。
ユダヤ人たちはこの安息日の規定はかなりまじめに守り続けているそうだ。その日に仕事はしてはいけないことになっている。その日の労働は禁止であり、相当厳格にその規定を守っているそうだ。しかしユダヤ人たちはその規定に違反しないように、何が違反になるのか、誰が違反しているか、ということに熱心になっていったらしい。そんな有り様を見て、イエスは「人のために安息日があるので、安息日のために人があるのではない」というようなこともいっている。しかし安息日がどうでもいいと言ったわけではない。イエスも安息日はとても大事なものであると言っている。本来の安息日を取り戻せと言っている。
聖なる日
神は第7の日を祝福し聖別された。単なる休み、仕事をしない日というだけではなく、特別な日とするようにというのだ。聖別とは清い日にするというようなことではなく、特別に分けておくというような意味である。安息日を特別の日とするように、というのが律法の告げることがらだ。そしてそれは神の憩いの日としての特別の日、私たちにとってはそれぞれの務めから離れる日、その務めを手放す日なのだ。あらゆることを手放して、ストップして神の下で憩う、それがイエスの言う人のための安息日なのだろう。
礼拝
さて私たちの教会は日曜日を特別な日としている。日曜日、それはイエスの復活の日。本来旧約聖書の言う7日目は土曜日だが、土曜の安息日にではなくイエスの復活の日を私たちの教会は礼拝の日としている。主の復活の日だからその日に礼拝をしている。そして日曜日の礼拝を主の日の礼拝、主日礼拝と呼んでいる。
休め
大事なのは土曜日か日曜日かではなく、果たしてその憩いの日である日曜日に憩っているかどうかということだろう。主の日の中心である礼拝が憩いの時となっているだろうか。おのおのの働きを離れて神と憩う時となっているだろうか。
ある本にこんなことが書いてあった。あるところに不登校をしている子どもがいた。その親は心配して医者に相談した。どうにか子どもを学校にということだったが、次第に子どものことだけではなく親である自分たち自身の問題もいろいろと考えるようになってきた。そこでその医者は子どもに、親のためにももう少し休め、というようなことを言ったそうだ。
普通不登校の子どもに向かって休めというようなことをいうことはあまりない。学校に行け、休むな、どうして行かないのだ、怠けるな、そんなことでどうする、世間はそんなに甘くない、というようなことをいうことが多い。中には物わかりのいい人もいるが、そういう人でも休んでもいい、というのが関の山だ。休んではいけないという気持ちを一番持っているのは不登校をしている本人で、学校には行っていないけれども本当は全然休めてなくて、じっと家にいる方が余程疲れることだ。そこに、どうしていかないのだ、何をしているのだ、なんていわれると余計にしんどくなってしまっているというのが多くの不登校生の実状だと思う。ところがこの医者はもっと休め、と言ったという。そしてこの子どもは休んでいいのだということで初めて本当に休むことができて、しばらくしてから、だったら学校に行ってみようか、というようになったそうだ。
神は休めと言われている。休んでもいいというのではない。もう充分働いたから休みを与えよう、というのでもないらしい。休みなさい、というのだ。人間は休まねばならない、そういう風に創られているということだろう。そして私たちは神のその休めという声を聞くことで、神の下へ帰って行くことでじっくりと休むことが出来るのだろう。神の声を聞き神のもとで休む。そこで私たち生きる力となる。
私たちはどれほど安息しているだろうか。礼拝はその神の声を共に聞く安息の場でもある。日頃の務めから離れて神のもとで休む時だ。だから礼拝するということは大事な掟だ。しかし礼拝に出ないと罰があるから仕方なく行くとか、礼拝に行って務めを果たしたからと家に帰ってから安心して休息するということにとなってしまっていてはそれは本末転倒である。礼拝は掟ではなく神の下へ帰ってこいという招きなのだ。
イエス・キリストも、マタイによる福音書11章28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われている。休むことは怠けていることではなく、新たな一歩を踏み出すための源であるようだ。なくてはならないもののようだ。
離す
神は第7日を祝福し特別なものとして分けたという。その日には日常の生活から離れて、日頃抱えているいろんなものを一度手放して、手放せなくても神のもとで休むのだ。大丈夫、心配しないで休みなさい。じっくりと私のもとで休みなさい、神はそう言われているのではないか。