前 へ  礼拝メッセージの目次  次 へ   

礼拝メッセージより



説教題:「イエスの十字架」 2004年4月4日 
聖書:マタイによる福音書 27章45-56節

 来週はイースターになります。それはイエスが甦らされた日、ということです。死んでから甦らされた、そして今週はその死んだという週に当たる。ただ死んだのではなく、苦しんで死んだ。苦しみの週、受難週と言い方をする。苦難を受けた週。
 イエスはどのようにして十字架につけられたかということは今読んでもらった聖書の少し前に出てきます。自分のことをメシアだ、キリストだと言ったために十字架につけられたようです。それは神を冒涜している、という風にみなされたようでした。

 囚人たちは十字架に堅く縛られるか、あるいは釘で打ちつけられます。そして十字架上で力尽きて死ぬまで苦しみ続けるのです。マルコによる福音書によるとイエスは朝の9時に十字架につけられ、昼3時に息をひきとるまで6時間、十字架の上で苦しみ続けたのです。
 僕等は指先を少し切ったといっただけで大変な思いをする。どうやらそんなものではなかった。手首のところに大きなくぎを打ちつけた、と言われている。どんなに痛いのだろう。
 しかしイエスの最も大きな苦しみ、それはイエスがひとりぼっちだったということかもしれません。26章56節を見ますと、イエスが捕えられたときに弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ出してしまいます。後でこっそり追ってきたペテロも、まわりの者から、お前もあいつの仲間だろうと問い詰められ、3度イエスを知らないと言います。長い間イエスと生活を共にしてきた弟子たちでした。イエスのいろいろな話も聞き、奇跡も見てきた弟子たちでした。しかし彼らさえ、結局はイエスを見捨ててしまいました。イエスについていくことができなかったというべきかもしれない。
 イエスは弟子たちに捨てられ、たったひとりで処刑場へと向かったのです。そして兵士たちにあざけられ、通りかかった者たちからののしられ、しかも一緒に十字架につけられている者たちからもののしられてしまいます。
 イエスの最後の言葉は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」つまり、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」でした。人々に完全に見捨てられ、そして神からも見捨てられた、その様な状況にイエスは立たされたのです。イエスはどうしてそのような事を言ったのでしょうか。

 神の子なら、どうして絶望して死んでいかねばならないのでしょうか。そもそもキリストがどうして殺されてしまったのか。本当にそんな人がキリストなのでしょうか。キリストならもっとましな死に方があるのではないのか。神に完全に信頼して、苦痛を耐え忍んで、讃美歌でも歌いながら死ぬべきではないか。キリストなら、神の子ならどうにかしたらどうなのか。そのままじっとして、弱いままで死ぬことはないではないか。そんな気がします。この時、この光景を見ていた者の中にも、同じように考えている人がいました。42節を見ると、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ、今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」と言った人がいたと聖書は語っています。
 なにかびっくりすることを見せてくれるなら信じてやろう、と言うのが人間の態度かもしれない。しかも彼らこそがイエスを十字架につけた張本人だったのです。
 このような絶望的な状況から奇跡をおこして勝利する、それこそがキリストである。私たちもそんな風にしばしば思います。
 イエスは様々な奇跡を行ってきました。でもこの時はそんなことはしませんでした。イエスは敢えてそれをしなかったのではないでしょうか。

 人は神に助けを求めます。苦しいとき、大変な時助けてくれるのが神、そうでなければ意味がない。自分を苦難から救い出してくれてこそ神だ、と思う。だから神は自分に敵対するものをいつでもやっつけることができる。そしていつもそういう者を懲らしめている。そうでないと、私を助けることもできないじゃないの。そう思う。
神のしるしを見せてみろ、聖書の中でもいろんな人がそういったと書いてあります。すごい奇跡をおこしてみろ、そう言います。
 私を助けてくれる、その力があることを見せてほしい。光輝く姿で悪者を懲らしめ世の中の不正を正していく、それが神のあるべき姿、多くの人はそんな神を求めているように思います。
 でもそんな私たちの期待に答えるような姿は十字架の上にはない。まるでしるしはない、そういった方がいいような気がします。敢えてしるしというならば、十字架の苦難をそのままに受けるイエス、それしかしるしはない。
 イエスは絶望の声を上げて息を引き取りました。まさに敗北の死の様といった感じがします。そんな死に方をする者をだれがキリストだと思うでしょうか、だれが神の子だと思うでしょうか。だれが信じることができるでしょうか。

 ところが54節 「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」と書いてある。百人隊長とは100人の兵隊の長で、当時イスラエルを支配していたローマの兵隊の指揮官、この人はイエスにいばらの冠をかぶらせ、つばきをかけ、十字架につけた兵士たちのうちにひとりであります。この隊長はイエスを見て、「本当にこの人は神の子であった」と告白しているのです。
 孤独に苦しみ、痛みに苦しみ、絶叫して死んでいったイエスを目の当たりにして神の子だ、と告白しているのです。彼にはイエスが神の子であることがわかったのです。どうしてそれが分かったのかはっきりとはわかりません。

 そこには神のしるしといったものは何もありません。確かに地震やいろいろな出来事が起こった。しかしイエス自身には人間が普通求めているような力強い神の姿はまるでありません。絶叫して死んでいった有り様を見て、イエスが神であることを知ったのです。その姿はなすすべがなく殺されていった、とも見える。しかし、敢えて何もしないで、ただ人間のするままを受け止めていったということなのかもしれない。天から力を発揮して人間を思いのままにあやつる神の姿ではなく、下からがっちりと人間のすることを全て受け止めている土台のような、そうやって人間の全てを包み込むような神の姿なのかもしれない。そして隊長はそんなことを感じ取ったのかもしれません。

 38節「そのとき、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と書かれています。神殿の奥の聖なる場所には大祭司が年に一度しか入れなかったそうで、その聖なる場所を仕切る幕がこのとき二つに裂けたというのです。
 聖なるものと俗なるものを分けていたものがこの時になくなりました。聖なるものを奥のほうにしまっておいて、簡単にはそこには近づけないと言ってたほうが有り難みがあって、そこに行くために修行をする、とかいっぱい献金する、と言ったほうが神秘的でいいのかもしれない。そう言ったほうが人も集まるかもしれない。でもこの時その聖なるものと俗なるものとの境となっていた神殿の垂れ幕が裂けてしまった。これもどうしてなのかははっきりしない。しかし聖なる神自身が境界線を破って俗なる人間のもとへ来られたということなのでしょう。神を見失い、絶望し、絶叫する、そんな所へ神の方から来られたのです。
 また墓が開いて眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返って聖なる都に入ったと書かれています。これはイエスの十字架の死が、決してただひとりの死ではなく、全人類のための死であったということを言おうとしていることだろうと思います。

 兎に角、イエスは十字架の死に至るまで、私たちと同じ所に居てくださったのです。同じ高さに立ってくださったのです。そして苦しみをも味わってくださいました。私たちと同じ苦しみを、それ以上の十字架の苦しみを味わってくださったのです。人に捨てられ、神にも捨てられ、完全に孤独な状況に立ってくださったのです。最後まで弱い人間として、私たちと同じ弱い者として、苦しみを忍んでくださったのです。最後まで私たちと同じ所にいてくださったのです。絶叫するしかないような所まで、共にいてくださったのです。
 神、われらと共に居ます、インマヌエル。クリスマスのメッセージ。共に居る、とはどういうことか。それは私たちと同じく、神よどうして私を見捨てたのか、と神に向かって叫ぶことかも。苦しくて苦しくて、神に向かって叫ぶしかない時、神にむかってどうしてなんだ、と文句を言うしか無いとき、その私たちと共に居るということは、同じように神に叫んでくれるということ。その叫びさえ出ない時、その時にも共にいるということだ。その相棒が居るとき、私たちは独りぼっちでないことを知る。独りぼっちほど悲しいことはない。誰も分かってくれる人がいないことほど悲しいことはない。そして独りぼっちで苦しむほど辛いことはない。苦しいことを誰にも言えず、神にいうしかない、それはどんな苦しみなのか。いろんな苦しみがある、どんなことを神に向かっていうのか。何を神に向かって叫ぶのか。どうして俺を救ってくれないのか、どうして見捨てるのかと叫ぶ時とはどういう時なのか。想像するのも大変な事態だ。しかし、そんな時にももう一人同じことを言うものがいる。それがイエスだ。どうしてだ、どうしてだと叫ぶ者がもう一人いる。決して一人だけではない。そんな時までイエスは一緒にいるのか。それが共に居る、インマヌエルということなのでしょう。
 しかし、神はこのイエスを復活させたのです。最後まで弱かったイエスを復活させたのです。ここに私たちの希望があります。イエスを復活させたように、神さまは同じように私たちを支えてくださるのです。イエスを復活させた、その同じ力が弱い私たちいも働いているのです。苦しみにあい、全く望みもない、すべての者に捨てられ、失敗し、落ち込み、神などいないと叫ぶとき、しかしそこにもイエスはいてくださるのです。そこにも神の手はすでにそこまで伸ばされているのです。

 ある牧師の妻の言葉を読みました。彼女の夫は牧師をしてきて、アルツハイマー病になりました。
 『夫の介護と同時に、私には、信仰の悩みが重くのしかかってきました。始めに云いましたように、悩み苦しみながらも、神さまのご用の一端を担わせて頂いているという、怖れおののくような光栄と感謝の中で、30有余年を過ごしました。
 「あと10年、これからは全身全霊を注いで、最後のしめくくりのご用をさせて頂こうね」と、話し合った矢先の病気です。
「神さま、何故なのですか、伝道者が足りない、もっと献身者がおこされるようにと、多くの祈りのある中で、全力投球で頑張ろうと決意した私たちが、何故、こんな目に合うのですか」と問いながら、祈り続けました。
 尊敬していたある先生が、祈りについての本を2〜3冊貸して下さいました。それには、医師に見放された重病人が、祈りによって奇跡がおき、元気になったというものばかりでした。それまでは殆ど、執りなしの祈りばかりだった様な気がしますが、初めて自分たちのために、必死で祈りました。
 「もし、夫に残されている寿命が20年なら半分、いえ5年……、1年でよいです。あと1年、このまま仕事をさせて下さい。夫を送ってしまったら、私の命もいりません。神さま、あなたが一言『癒してあげよう』とおっしゃれば、治るのです。夫はまだ働きたいのです」とひれ伏し床を叩いて必死に祈り続けましたが、奇蹟はおこりませんでした。すると、私の祈りが足りないからだと自分を責めました。
 病いは進行するばかり「神さま、私の祈りは間違っているのでしょうか……?
では、夫の介護に耐えられる体力を私に下さい」と祈りましたが、私の病院通いは増えるばかりです。段々、神さまに文句をいうようになり、そのうち祈れなくなりました。でも気がつくと、いつもいつも心の中で「神さま、神さま! 私たちを見捨てないで下さい」と祈っているのです。
 はじめに読んで頂いたマルコ14章36節、また15章34節、十字架上で「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と、叫ばれるほどの苦しみをご自身の身に負って、私たちの罪の完全な贖いを、成し遂げて下さったイエス。
 その苦しみとは比べものにならないと思いつつも、聖書を素直に読む事も祈る事も出来なくなった私でした。けれども、この箇所は否定する事も反撥する事も出来ません。いいえ、このみ言葉に、しがみついて生きてきたのです。』

 イエスは十字架で絶叫しました。それは私たちの絶叫でもあったのではないでしょうか。イエスは私たちの苦しみをだれよりもご存じです。苦しみがどれほど人を痛めつけるのかも知っています。イエスによって祈ることで、奇跡が起きることはないかもしれません。しかしイエスは私たちの願通りに奇跡を起こすよりも、もっとすばらしいものをくれた。それはイエスが共にいてくれることです。イエスはどんな時にも見捨てたりしません。人が皆見捨てても、神などいないと言ったときでも見捨てない。私たちがどうしてこんなことに、どうしてこんなことが、という時に、イエスは私たちと同じように叫んでいる。一緒に苦しんでくれる、一緒に悲しんで暮れる、一緒に悩んでくれる、そういう仕方でイエスは私たちのそばにいてくれるのです。イエスはどこまでも共にいてくださる。
 マタイの一番最後のイエスの言葉は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」でした。その言葉の意味はそういうことだったのかもしれません。

前 へ  礼拝メッセージの目次  次 へ