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礼拝メッセージより
説教題:「無駄遣い」 2004年3月28日
聖書:マタイによる福音書 26章1-13節
香油
今日の聖書はサンドイッチになっている。1-4節と14-16節はイエスを殺害しようと言う策略が進められているということ。その間に挟まって一つの事件が起きたことが書かれている。
イエスが皮膚病の人シモンの家で食卓に着いていたときの話。
一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って来て、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
マルコの福音書には、その香油はナルドという香油で、300デナリオン以上に売れるものだったらしい。1デナリオンが一日の賃金だから、今でいえば300万円以上のしろものだったようだ。その香油をこの人はイエスの頭にかけてしまった。
300万円あればなにをするだろうか、と浅ましい考えをする。そんな高価なものを頭からぶちまけてしまって、誰だって怒りたくもなる。
だからみんなびっくりしてしまった。「何でそんなもったいないことをするのか。そんな無駄使いをするんなら俺にくれ。」と言いたかったに違いない。多分本心はそうだったんじゃないかな。本心はいえないが、腹が立って仕方ないから、貧しい人たちに施すことができたのに」なんて建前を言ったのだろう。そして彼女を厳しくとがめた。
そのままに
しかし、イエスは「するままにさせておきなさい」と言われる。そういえば、人々がイエスにさわってもらうために幼子を連れてきたときにも「そのままにしておけ」と言っていた。
さらにイエスは「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。」とまで言われる。このことは良いことだと言うのだ。周りのものが厳しくしかっていることに対して、いかにも無駄使いと思えるようなことに対して、イエスは、これは良いことだと言われる。さらに、世界中どこでも、福音がのべ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう、とまで。記念ということばは、主の晩餐を、わたしの記念として行ないなさい、と言われたときの言葉で、ほかでは見あたらないそうだ。つまりイエスの死を記念するのと同様にこのことを記念すると言うことのようだ。
無駄遣い
無駄遣いをしてはいけないと言い続けられてきた。勿体ない、といつもいわれてきた。確かにそれは大事なことだと思う。レストランでは残り物をいっぱい捨てているなんて聞くと随分勿体ないことをしているなと思う。どこに行くにも自家用車で移動することが多い。町の中はひとりだけが乗っている車が多い。エネルギーを浪費しているなと思う。どう考えても無駄であるということも確かに多い。しかし時と場合においては、なにが無駄なのか、なにが無駄でないのかを判断するのは難しい。
貧しい人たちに施すことができた、というのも確かに正論ではあるだろう。そうすることもできた。しかしこの女性にとっては香油をイエスの頭にかけることに価値があったのだ。イエスに対して自分の大事なものをささげること、そこに彼女にとって最高の価値があったのだ。
大事に大事にとっていた高価な香油だったのかもしれない。いざというときにはその香油を処分して金に換えるためにとっていたのかもしれない。しかしその香油を全部使ってしまうということが彼女の中に起こっている。
明日からの生活が心配になるかもしれない。しかしそれよりも彼女にとってはイエスに何かをしたい、自分のできる限りのことをしたい、きっとそう思ったのだろう。彼女がイエスとどんな関わりを持っていたのかもよく分からない。けれども彼女にとっては、イエスと関わりを持つことこそが人生の最高の価値の価値のあることがらだったのだろう。イエスに自分のできるかぎりのことをすることは彼女にとってはきっと最高の喜びだったのだろう。
弟子たちにはそのことが理解できなかった。しかしイエスにはそれがよく分かったのだ。だから、わたしに良いことをしてくれたと言ったのだ。
究極の無駄遣いはイエスが十字架で死んだことだろう。この私のためにイエスは死んでくれた。これほどの無駄遣いはないと思う。イエスの命の引き替えには値しない私たちのためにイエスは死んでしまった。しかしそこには神の熱い思いがあったのだ。こんな私たちをどうにかしたい、自分のところへ連れ戻したい、自分と一緒に生きるようになって欲しいという熱い思いがあったから、イエスは十字架で死んでくれたのだ。
それに対しては私たちはどう応えていくのか。
勿体ないから、お金がないからということで何もしないというのが多いのが現状だ。でもそのことで愛することさえもやめてしまっていてはおかしなことだ。愛しているかどうか、愛する思いがあるかどうか、結局はそこが問われているのかもしれない。神を、隣人を愛しているのだろうか。それともお金を愛しているのだろうか。