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礼拝メッセージより
説教題:「最後まで証人として」 2004年3月21日
聖書:マタイによる福音書 24章1-14節
お上りさん
田舎に生まれて育ったので都会に対して相当な憧れがあった。僕にとって憧れは、今治であり、松山であった。東京なんてのは別世界だった。
初めて東京に行ったのは中学一年の時の冬休みだった。たまたま兄貴が東京の専門学校に行っていたのでそこにいった。一人で当時の国鉄を使って東京駅まで行った。当時は新幹線が岡山までしかきてなくて、まず高松に行って、宇高連絡船に乗って宇野まで行き、そこから岡山まで行って、やっと新幹線に乗る、というルートで行けばいいということで親父が切符も手配してくれた。びっくりしたのはここの駅はここのホームにつくからこっちへ行けばいい、ここの駅はここで降りてここを通ってここで乗る、というふうに地図に書いてくれたことだった。どうしてこの人はそんなによく知っているんだろうと思った。そういうわけで初めて東京に行ったわけだが、何日も前からわくわくしていた。そして東京に近づくと、新幹線から見える町並みが全然途切れないことにびっくりしてしまった。それと高いビルにびっくりして何回も何回も高い建物を下から見上げていた。東京タワーとか新宿ののっぽビルの下に行ったときにはいつも上ばかり見ていた。見るからにお上りさんだったことだろう。
イエスが神殿の境内を出ていく時に、マルコの福音書によると、弟子の一人が、神殿を見て、「なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったと書かれている。弟子たちはガリラヤ出身で、要するに田舎者だった。エルサレムは彼らにとっては大きな町だったのだろう。そして彼らも当然ユダヤ教徒だったわけで、その神殿は特別の思い入れのあるものだったことだろう。これはすごいという感激の言葉をはく気持ちもよくわかる。そして実際その神殿はそうとう立派なものだったのようだ。弟子たちはイエスについて神殿にやってきて、そしてイエスが神殿で何をして、何を論じていたかを見たり聞いたりしてきたはずだ。しかしそれでもやっぱり神殿を見ると、すごいなあという気持ちになったようだ。
しかしイエスは、「これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」と言った。実際あと数十年たった紀元70年には神殿は破壊されてしまっている。弟子たちは、「それがいつ起こるのか、その時にはどんな徴があるのか」と聞く。イエスの答えは「戦争があり、地震があり、飢饉がある」というものだった。しかしこれらは苦しみの始まりだとも言う。まだ世の終わりではない、と言う。
正に今がその時だと思えるようなことがいろいろと起こっている。だから世の終わりなのだと言う人もいる。しかしそのような徴が起こることが世の終わりではなく、イエスが来られる時が世の終わりなのだ。神殿が崩壊することが世の終わりではない。
戦争も、地震も、飢饉もある。まるでここに言われていることが全部今起こっているかのようだ。しかしイエスは、人に惑わされないように気をつけなさい、と言う。そして最後まで耐え忍ぶ者は救われるというのだ。
いろんな苦しみが起こるであろうと言われている。つまずいたり、裏切ったり、憎み合うようになる、偽預言者も現れて人を惑わす、不法がはびこる、そして多くの人の愛が冷える、というのだ。
偽預言者たちを始め、愛を冷やしてしまう人たちが大勢現れるということなのだろう。
愛を冷やす
私たちは今まさに愛が冷やされてしまうようなことをいろんな所で聞かされているのかもしれない。愛することよりも憎むことが当然であるかのようなことを言われている。愛したからってどうなるものでもない、愛しても何にもならない、愛するなんて世界はそんなに甘くない、というようなことを言われている。愛する者を守るためには敵をやっつけなくてはと言われている。そしてそんなことを聞くとそうかもしれないと思ってしまう。そしていつのまにか愛することをすっかり忘れてしまっている。愛するよりも憎むこと、愛するよりも責めること、愛するよりも無視することにすっかり慣らされてしまっている。それが私たちの現状かもしれない。
イエスは愛しなさいと言った。互いに愛しなさいと言った。敵を愛しなさいと言った。また赦しなさいと言った。私たちはその愛する力、赦す力を全く見失っているのかもしれない。愛する力を見くびっているのかもしれないと思う。そしてイエスが言われている一番大事な掟をどうでもいいことのように聞いているのかもしれない。一番大事な愛することをやめてしまっては、他のどんなことをしても、キリストを信じていると言っても、本当は信じているとは言えないのだろう。愛することをしてないとしたら、キリストを信じています、キリストに従っていますとは言えないのだろう。
イエスを信じると言うことは、イエスに従うということは新しい家を建てるようなものだ。新しいいい家を建てるようなもの。でも人は古い家をなかなか捨てられない。弟子たちが神殿に対するあこがれのような思いを捨てられなかったように、昔の思い、信念、慣習を捨てられないということがある。
もちろんイエスを信じていないというわけではない、しかし根本は昔のままというようなことがある。古い家の上に新しい家を継ぎ足したようなことになっていることがある。クリスチャンになったのに、子どもの頃から関わっている神社のお祭りに毎年熱狂するということを聞いたことがある。そんな表面的なことは大したことないのかもしれない。それより大変なのは、クリスチャンになったのに、根本の考え方が何も変わらないことだろう。クリスチャンなのにイエスを信じないということはないだろうが、イエスよりも他のものに頼る、他のものの方を信じることがある。御言葉よりも聖書の言葉よりも、他のもの、他の人の言葉、一般常識を信じることがある。イエスの言葉よりも昔から持っていた自分の信念を信じることがある。いくらイエスがそういったからと言って、世の中はそんなものではない、そんなこと言ったってできるわけがない、そうなるわけがない、それは単なる理想なんだと思うことがある。そういうのを偽メシア、偽キリストというんではないかと思う。偽キリストと言っても宗教団体の教祖だけではないのだ。
私たちが当たり前だと思っていることが、イエスをどこかに押しやっていることがある。そのためにイエスが見えなくなり、イエスの言葉を信じられなくなっていることがある。
お前はだめだ、だめだ、と言われ続けた子どもにとってはそれが偽キリストだ。俺はどうでもいい人間だ、だめな人間だと思っているなら、それが偽キリストの仕業だ。イエスが、お前が大事だ、お前が大切だ、お前を愛していると言っている、そのことを信じられないなら、そんなこと言われても私はやっぱりどうでもいい人間なんだと思っているなら、それは偽キリストにだまされている。イエスではなく他のものを信じている。
私たちの周りにはそんな風に、私たちをイエスから離れさせてしまうような、イエスの言葉を信じさせないようなものがいっぱいある。愛することをやめさせてしまうこと、愛を冷やすことがらと言葉がいっぱいある。
しかし最後まで耐え忍ぶ者は救われると言う。耐え忍ぶとは、留まるという意味なのだそうだ。最後までイエスの言葉に留まること、それが耐え忍ぶということだ。イエスの言葉から離れてしまうこと、そこでは愛が冷えてしまうのだろう。
宣教
今はまるでイエスの言う世の終わりの兆候が現れているような時代だ。しかしその時、御国の福音はあらゆる民への証として全世界に宣べ伝えられる、と言う。教会は、私たちは、その福音を伝える者としてここに集められている。
イエスに留まり、イエスの言葉に留まり、福音を伝えていく、それがキリストが私たちに今求めていることなのだ。
争いがあり、惑わす者が現れ、愛が冷えている、まるで世の終わりのような時代である。しかしこんな時代だからこそ、世界は御国の福音を必要としているのだろう。