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礼拝メッセージより
説教題:「祈りの家」 2004年3月14日
聖書:マタイによる福音書 21章12-22節
神殿
イエス一行はエルサレムにやってきた。そして神殿の境内に入りそこで商売をしている者の商売道具をひっくり返した。
神殿の境内に「異邦人の庭」というのが神殿から離れたところにあり、そこに許可を受けた商人、動物商、両替屋などがいた。異邦人の庭の大きさは450m×300m。商人はぶどう酒、犠牲のための動物など祭儀に必要なものを売っていた。両替人は外国の貨幣を神殿奉納に指定されていた古代ヘブライのシケルと交換した。外国に移住していた人たちにはヘブライのお金はあまり持っていないだろうし、それも昔のお金となるとそれを用意するのは大変だっただろうから、そういう両替人がいることで助かっていたのかもしれない。また犠牲のための動物を遠くから持ってくるのも大変で、神殿のすぐそばで買うことができれば面倒もなくて都合がよかったのだろう。そして貧しい庶民が犠牲のために買っていたのが鳩だったそうだ。商人はそれでもうけていたわけだが、それに神殿の祭司もからんでいたらしい。こういうときはこうしなければいけません、犠牲をささげるときにはこれこれこういう動物でなければ、なんてことを言いながら、その動物はここで売っていますからここで買えばいいです、ここの店のならば大丈夫です、なんてお墨付きをもらえれば店にとってはうれしい。そのお墨付きをもらうために、商人がどんなことをしたのか、は詳しくは分からないが、どこの国でもそういう時には賄賂を送ったとか接待したとか何とか言う話になってくる。昔からどうやらそうだったらしい。
イエスは神殿で怒り狂ったような振る舞いを見せているが、商人にだけ怒っているのではなくて、そのことによって一部の特権を持ったものだけがいい思いをしていること、そのために一般庶民から搾取している、そういうことに対しても怒ったのではないか。そこでイエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と書いてあるじゃないかという。これは旧約聖書のイザヤ書の56:7に書いてある。祈りの家をおまえらは強盗の巣にしている、とたぶんすごい剣幕でいったのではないか。マルコの福音書をみると、祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いてイエスをどう殺そうかと相談したと書いてある。イエスの言葉が図星だったということだろう。いたいところを突かれて頭に来たといったことかもしれない。ここまで言われれば仕返しをしたいと思うことも分からなくもないか。
今教会に変な格好をした若造がやってきて「この教会は強盗の巣だ」なんて言ったらどうするだろうか。なに言ってんだこいつは、ということになるかもしれない。それはともかく神殿が本来祈りの家であるように、今の教会も祈りの家であるべきだろう。すべての国民、一人の例外もなく全人類の祈りの家であるべきであろう。あるべきと言うよりも、教会は全人類の祈りの家なんだ、と思う。教会とはそういうところなんだきっと。
こども
境内では子ども達まで「ダビデの子にホサナ」と言うのに対して、祭司長たちや律法学者たちは腹を立てたという。彼らにとっては自分たちの作っているシステムを非難されてしまった。神殿は祈りの家ではないか、と言われると何も言い返しようもない、その上自分たちが認めている商人や両替人、そして自分たちのことも強盗呼ばわりされてしまった。その上イエスが子ども達からも、ダビデの子にホサナ、なんて呼ばれて英雄のような扱いを受けていることにすっかり腹を立ててしまった。子どもがうるさくしているのが聞こえないのか、神殿では黙らせなさい、ということなのかもしれない。子どもを黙らせて、私たちの教えているように犠牲をささげなさい、それが神殿でのルールなのだ、と言いたいのだろう。
それに対してイエスは、「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という言葉を読んだことがないのか、と切り返した。
いちじく
イエスは、エルサレムには泊まらずベタニアに泊まった。そして朝早く、エルサレムに向かう途中空腹になった。そこでいちじくを見たが葉っぱばかりで実がなかった。マルコでは、いちじくの実がなる季節ではなかったからと書いている。なのに「今から後いつまでも、お前には実がならないように」なんてことを言う。なんてことを言うのか。どうしてそんなことを言ったのだろう。しかしいちじくの木はたちまち枯れてしまった。
イエスが神殿に期待していることと実際の神殿の有様はまるで違った。それに対しイエスはかなり厳しい口調で怒った。このイエスの姿は先ほどのいちじくの場面とよく似ている。
実がなっていることを期待したけれども期待通りではなかった。イエスがいちじくの木に向かって「今から後、おまえには実がならないように」と言ったのはいちじくに対してというよりも、神殿の有り様、あるいはエルサレムの人々の有り様に対する怒りの言葉だったのかもしれない。エルサレムや神殿のことがイエスの頭の中にいつもあって、そのことで頭がいっぱいだったから、どうしてこんなことになっているのかという悲しい気持ちでいっぱいだったのではないか。たまたまそこに実のないいちじくのそばを通り、エルサレムや神殿に対する嘆きがこの言葉になったではないか。
弟子たちはいちじくの木が枯れたのをみてびっくりして、どうしてすぐ枯れてしまったんですか、と聞いた。
これに対してイエスは信仰について語る。疑わずに信じれば山も動いて海の中に入る、と言う。もちろんそれほどすごいことが起こるということだろう。信仰を持って疑わないなら、山も海に飛び込むというのだ。
とにかく何でもいいから信じればいいんだ、信じるという行為が大切だということではなく、神がすごい、神が偉大だから、だから神を信じなさい、こんな神だから神に祈りなさいと言っている。人が熱心に祈ることで何かが起こるというような、祈る人間の問題ではなく、神の問題、神がどうであるかということが問題なんだ。神は山をも動かすことのできる方だ、その神に祈るからすごいことが起こるのだ。だから神を信じない、神を見なさいとイエスは言う。自分は本当に信じているだろうか、信じる心が足りないのではないかというように自分を見るのではなくて、神を見なさい、神を信じなさい、神がどれほど偉大な方かを見なさい、その神に祈りなさい。と言うのだ。
赦し
そしてマルコの福音書では、「また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすえば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」と続いている。信仰とは神を信じること。神と一人の関係は祈りの関係。しかし信仰とはそれだけやない。信仰とは自分と神との関係だけではない。信仰とは人と人との関係でもある。そして信仰的人と人との関係は赦しの関係。信仰を持つということは神を信じるということと、人を赦すと言うことでもあるということだろう。
人を赦すということは神を信じることよりも難しいことかもしれない。というかこれはわかりやすい。自分が人を赦しているかどうかは自分でよく分かる。神を信じているかどうかというのはちょっと分かりにくいが、人を赦しているかどうかは自分でよく分かっている。神を信じているかどうかということは人を赦しているかどうかで分かるのかもしれない。人を赦していないということは神を信じていないということに等しいのだ。たぶん。神が自分の罪を赦してくれたと信じるものは、人の過ちをも赦すことができるということだろう。
人を赦す世界になったらどんなだろうか。人を赦さないがために戦争はいつまでも続いている。自分の身内を殺されたからやり返すという気持ちはよく分かる。でもそのためにまた新たな悲劇を繰り返し、また新しい憎しみを生んでいって、いつまで立っても争いはなくならない。イエスは赦しなさいという。キリスト教は今まで戦争をいっぱいしてきた、と最近よく聞く。宗教戦争をしてきたと。最近のテレビでも、新聞の投書欄でもそのような記事を見た。だから宗教はよくない、キリスト教はよくないと言いたいような口振りだった。確かに戦争ばかりだった。キリスト教ということを口にして戦争をし、人を殺してきた。教会もそれに荷担してきたのかもしれない。でもイエスは赦しなさいといっている。イエスは人を殺せとは言わなかった。自分が殺されても、人を殺せとは言わなかった。赦しなさいと言う。結局はその言葉をどこまで真剣に聞いてきたのかと言うことなのだろう。キリスト教徒やキリスト教会が、その言葉をどこまで聞いてきたのか。自分たちの仲間を赦しましょうということで仲間内だけの問題として聞いたのか、それともすべての人を赦しましょうと言うことで、全世界のこととして聞いたのか。そこがとても重要だと思う。その赦すと言うことは神を信じることと同じ大切なことなのだ。赦しなさいという言葉は、神を信じなさいと同じ重さの言葉なのだろうと思う。
神殿が本来の神殿となっていないことにイエスは腹を立てた。期待した実のついていなかったいちじくを枯らせてしまった。私たちの教会は本来の教会となっているのだろうか、祈りの家となっているのだろうか。神に従い神に聞いていく場所となっているのだろうか。それとも見せかけだけの信仰になっているのだろうか。ただ日曜日の午前中だけ、教会人のような顔をしているだけなのか、それともどんな時でも神に聞き、神に従って生きようとしているのか。愛し合い、赦し合い、いたわり合う群れとなっているのだろうか。そこのところが問われているのだろう。