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礼拝メッセージより
説教題:「何をすればいいのか」 2004年3月7日
聖書:マタイによる福音書 19章16-30節
金持ち
一人の男がイエスに走り寄ってきた。この人は金持ちであったと書いてある。ここと同じ話はマルコによる福音書にもルカによる福音書にもでてくる。ルカでは役人と書いている。この人は若い役人だったのかもしれない。
この人はイエスに近寄って尋ねている。マルコの福音書ではひざまづいて尋ねたと書いている。聖書にはイエスを試そうとか、罠に掛けてやろうとかいう人がたびたびでてくるが、この金持ちはどうやらそういったたぐいの人たちとは違っていたらしい。イエスを尊敬していて、教えていただきたいことがある、この偉大な先生から聞きたいといった気持ちから、こういった態度に出たのではないか。金持ちという人は威張っている人が多いようなイメージがあるが、この人はそんな人ではなかったようだ。
そしてこの人の質問は「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいでしょうか。」というものだった。この人はかなり謙虚で、相当まじめな人だったようだ。
イエスは、もし命を得たいのなら掟を守りなさい、と答える。そうするとこの人は、どの掟ですかと聞く。イエスは、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい、と答える。これらはユダヤ人にとっては誰でも知っているような有名な掟だったらしい。それに対して青年は、「そういうことはみな守ってきました、まだ何か欠けているでしょうか」と聞く。この青年は律法はみんな守っていると自信を持って人に言えるほどに、全く敬虔な人のようだ。金持ちのくせに、どうすればこの金が増やせるかとか、どうやって減らないようにするか、といったことばかりを心配するのではなく、永遠の命のことを考えている、とても信仰熱心な人でもあるらしい。
完全
これを聞いたイエスは今度は、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」と言う。なんということを。この人がどうやって財産を多くしたかは分からない。親から相続したのか、一所懸命働いて貯めたのか、それは分からないが、その財産をみんな貧しい人にあげてしまえ、なんて言われて、はい、ではその通りにしましょう、なんて言うわけにもいかないだろうに。この人は悲しみながら立ち去った、と書いてある。そりゃそうだ。しかし何でイエスはそんな厳しいことを言ったのか。
ところでどうして、何でこの人はイエスに永遠の命のことを聞きに来たのか。律法はしっかり、きっちり守っている。自他共に認める立派な信仰者だったようなのに、それ以上何を聞きに来たのかと思う。それでもやっぱり何かが欠けているという気持ちがあったのではないだろうか。
今の教会で言えば、敬虔なクリスチャンと言われ、礼拝には毎週毎週休まず出席し、収入の十分の一以上を献金し、誰よりもいっぱい教会の奉仕をして、おまけに社会的にも信用があり、堅実な仕事をしている金持ち、と言ったところかもしれない。すべきことと言われていることは完全にこなしてきた人だったのだろう。しかし彼にはきっと何かが足りなかったのだ。何かが足りない、それは喜びだとか充実感だとか、そういうものだったのではないかと推測する。この足りなさを埋めるにはどうすればいいのか、自分に欠けているのは何なのだろうかという気持ちがあったのだろう。
善いこと
青年は、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうかと聞いた。いいことをいっぱいすることで、そのお返しにいいことがあるのではないかという言い方をすることがよくある。そういうときには自分がどれほど徳を積んだかとか、自分はどれほど言い人間であるのかということが問題になってくる。しかしイエスは、貧しい人々に施しなさい、そしてわたしに従いなさいと言った。自分がどうであるのかという、自分のことばかり考えることから、自分の周りにいる人たちのことに目を向けるようにと言われているように思う。施しをしなさいというのも、施しをしたという善いことをしなさいということではなく、周りの人との関係を大事にしなさいということだろう。青年は、自分がどれほど立派にやってきたかと言って自分のことばかり考えていて、周りにどんな人がいるか、周りの者との関係がどうであるかということにはほとんど関心がなかったのだろう。イエスはそれこそがこの青年に欠けていることだと言いたかったのではないか。
青年にとってイエスの言葉はきっと衝撃的すぎたのだろう。だから悲しみながら立ち去った。
神にはできる
イエスは弟子たちに、金持ちが天の国に入るのは難しいと言い、弟子たちが、それでは誰が救われるのだろうかと聞くと、それは人間にできることではないが、神は何でもできる、と答えた。
人はだいたいみんなお金を持っているわけだ。それを売って貧しい人に施すことが天の国に入る条件だとしたら、それこそ天国はほとんど空っぽになってしまいそうだ。しかし人間にはそれはできないが神にはできる、と言うのだ。天の国に入ることは人間には出来ない、人間が自分の力で入ることは結局はできない、しかし神にはそれをすることができるというのだ。
青年は、どんな善いことをしたら永遠の命を得られるかと聞いた。人間がどんな努力をしたら永遠の命を得られるかと聞いた。それに対してイエスは、結局はそれは人間が自分の力で出来ることではないのだ、神から与えられることではじめて永遠の命を得られる、ということを言おうとしているのではないか。
イエスは、わたしに従いなさいと言う。そんな人間に永遠の命を与えるため、天の国に招くため私は来ているのだと言うことを言いたかったのではないか。
永遠の命とは、ただ死なない命ということではなく、イエスとのつながりを持ち、神に生かされて生きる命、そして隣人と互いにいたわり合いつつ生きる命ということなのだろう。イエスは、自分の持ち物や業績に目を奪われるのではなく、隣人とのつながり、神とのつながりに目を向け、それを大事にしなさいと言われているのではないか。