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礼拝メッセージより
説教題:「赦しなさい」 2004年2月29日
聖書:マタイによる福音書 18章21-35節
赦し
自分が赦されたことと、自分が赦すことはなかなかつながらないのも事実。自分の負い目を赦されたときには嬉しい、よかったと思うが、相手の負い目を赦すことはなかなか難しい。それはそれ、これはこれと思う。自分が何か失敗した時には、あーだこーだと色々と口実を探したり、何とか赦してもらう方法はないものかと思ったり、これくらいは大目に見てくれてもいいじゃないか、なんて思ってしまう。ところだ誰かが失敗したときには問答無用で相手を責め立ててしまう。自分のことは棚にあげて、相手がいかにどじで間抜けで駄目な人間か、なんていうような目で見てしまう。赦す必要がどこにあるのか、なんてことになってしまう。それが私たちの現状でもある。
1万タラントン
ペトロが「主よ、兄弟がわたしに罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか」とイエスに問いかけた。当時、ユダヤ教の教師であるラビは、神は3度まで赦してくださる、と教えていたそうで、ペトロが7回までと言ったのはそれよりももう少しは寛大な態度でいましょうか、と言ったような気持ちがあったようだ。
それに対してイエスは7の70倍赦しなさい、なんてとんでもない答えをする。そんなに赦してられない、そんなに赦していいのか、そんなに赦してたらみんな勝手なことばかりするようになってしまうじゃないか、なんてことを思ってしまう。
しかし、兄弟が罪を犯した時何回赦すべきでしょうか、なんて聞き方自体が、罪は自分以外の者のことであって自分は赦すことはあっても赦されることはない、かのような言い方にも聞こえる。ペトロにもそんな思いがあったのではないかと思う。
そこでイエスは仲間を赦さない家来のたとえを話す。
1タラントンとは6000デナリ。1デナリオンが一日の賃金だそうなので、たとえば1デナリオンを1万円だとすると、1タラントンは6000万円。そうすると1万タラントンとは、6000億円とかいうお金になる。
イエスのたとえ話は、6千億円を赦してもらった者が、100万円を赦さなかったという話しなのだ。60万分の1を赦さなかったという話しなのだ。
あなたは兄弟を何回赦すとか赦さないという話しをしている。100万円の借金を赦すとか赦さないとかいう話しをしている。しかしそんなあなた自身が実は6000億円を赦されている者なのだ。イエスはそう言っているのではないかと思う。
6千億円を赦す、それは私たちに対する神の赦しの大きさということをも現しているのだろう。私たちが人に対して赦すとか赦さないとか思っている、その60万倍くらいのものを、要するに無限に大きな罪を私たちは赦されている、ということでもあるのだ。それなのに私たちは、自分が赦された60万分の1の罪を何回赦したらいいんでしょうかと言っている。7を70倍するほどにとイエスは言う。490回ということではなく、それは結局は無限に赦せということなのだろう。このたとえから言うと60万回赦せばちょうど差し引きゼロになるということなのかもしれない。無限に大きな罪を赦されているのだ、だからあなたがたは無限に赦してやりなさいということなのだ。
私はあの人を赦してやった、と自慢げに思うこともあるが、60万回くらいまでは偉そうに言えるものではないということかもしれない。
しかも、この家来の王に対する返事は、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」ということだった。6千億円を使い込んでたようなもので、どう考えても返せる見込みなどない。当てがあったのか。そんなのはきっとなかっただろう。こつこつ働いて返せるような額でもない。1デナリオンが一日の賃金なので、それを全部返済に充てるとして一日1デナリオンずつ返したとしても、元本を返すだけで16万4383年と半年かかるそうだ。それなのに返しますなんて言うのだ。できもしないのにどうしてそんなこと言うのか、と言われそうな言いぐさだ。借金を返せないこと咎められて罰を受けるとしたら一生牢屋から出られない、だから必ず返すとしか言えなかったということかもしれない。そこで裁かれてしまうともう生きていけないようなものなのだ。そんな家来のことを、王は憐れに思って赦してやったということのようだ。そしてそれがまさに私たちの態度でもあるのだろう。
神と人間との間には人間の力ではどうにも大きな溝がある。それほどの大きな罪を私たちは持っている。しかし神はその罪を赦すというのだ。人間の力ではどうにもできない、人間の努力ではどうにもならない罪を赦すというのだ。そんな私たちを憐れに思って、神は私たちとの溝を埋めてくれた。そうやって私たちは神との交わりに招かれている。そうやって神の国へ招かれている。
だから、あなたたちも赦しなさい、というのだ。
もう赦されているから、赦しなさいというのだ。あなたが赦せば、あなたも赦してやるというのではない。もう赦されているから赦しなさいというのだ。
赦し
赦すということは自分を解放することでもある。
あいつは絶対に赦さないと思い続けると、その人のことばかり考えて、ずっといやな思いを引きずっていくことになる。確かにとうてい赦せないと思うこともある。絶対に赦してなるものかと思うこともある。
自分の家族を殺された人が、その犯人に面会に行くというようなことが時々ある。家族を殺した犯人なんか赦せるわけがないと思う。家族が殺されたら、その犯人をきっと一生憎み続けるのではないかという気がする。それが当然だと思う。ところがその犯人に会いに行くという人が時々いる。そんな人の本を読んだことがある。憎み続けることはとても大変なことだ。とてもエネルギーのいることだ。絶対に赦さないと思うことは、相手をその罪に縛り付けることでもあるが、自分自身をいつまでもその憎しみに縛り付けることでもあるらしい。相手を赦すことで自分も解放されていく、というようなことが書いてあった。
「あなたがた一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの父の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」なんだか脅しのような言い方ではある。しかし実際、赦さない者は結局は自分も赦されない、解放されないというのは本当だろうと思う。
赦す
聖書教育にボンヘッファーの言葉が書いてあった。
「一回、二回、三回、とあなたは数えようとするかもしれない。しかしそうすることによって、あなたはだんだんと威嚇的になり、兄弟との関係はだんだんと苦しみに満ちたものとなる。自分が何度相手を許したかを数えている間は、あなたは繰り返し、相手の犯した罪を数えているのであって、実際には、まだ一度も相手を許していないのである。しかしそのことに、あなたは全く何も気がついていないのだ。数えることをやめ、自由になりなさい。許しには、数も終わりもないのだ。許すということで、あなた自身の正しさが損なわれるのではないかという心配は無用である。なぜなら、あなたの正しさは、神のところに保管されているのだから。だから、無限に許しなさい。許しには始めもなく、終わりもないのである。なぜなら許しは、神から来るものだからである。」
赦すということは相手を自由にするだけではなく、きっとそれ以上に自分を自由にすることでもあるのだ。自分の正しさが損なわれるような心配も確かにある。自分の正しさを守るために赦すべきではないと思う気持ちもある。しかし赦すことこそが、イエスが私たちに求めている正しさなんだろうと思う。
赦されることで人間は変えられていくのだろう。徹底的に赦されることで変えられていく。赦してやったのに何も変わらないじゃないか、と思うときもあるが、そんな時は本当には赦してはいないような気がする。私たちも赦されることで変えられていく。私たちは徹底的に赦されている。神はイエスの十字架の死をかけて私たちを赦してくれているのだ。そのことをしっかりと受け止めていくこと、その言葉をしっかりと聞いていくこと、そこで初めて私たちも赦すことのできる人間に変えられていくのだろう。