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礼拝メッセージより



説教題:「あなたはどうなの?」 2004年2月22日 
聖書:マタイによる福音書 16章13-20節

 「フィリポ・カイサリア」 ガリラヤ湖のはるか北方。ヨルダン川の水源近く。ヘルモン山のふもと。今のゴラン高原。イエスの活動した中ではエルサレムから一番遠い所。
 イエスは「人々は私をだれと言っているか。」と弟子たちに聞く。
 弟子たち「バプテスマのヨハネ、エリヤ、預言者のひとり」
 バプテスマのヨハネは処刑されて殺されてしまっていた。イエスがバプテストのヨハネだとすると死人が生き返ったということになる。
 エリヤは旧約聖書にも登場する超有名な預言者。今でもユダヤ人の評価は高い。過越の祭りのときにはひとつのいすを「エリヤの椅子」として空席として、エリヤの再来を期待する。エリヤの再来と言う人たちからは、イエスはかなり評価されていた。エレミヤだという人もいたそうで、かつての預言者と同じような人がやってきたという評価はあったらしい。国が傾いたり、なくなったりしたときに登場した預言者がまた現れて、ローマ帝国に支配されている国を、もう一度強い立派な国に建て直してくれるということを期待する空気があったようだ。
 イエスはさらに質問する。「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが答えた。「あなたはメシア、生ける神の子です」。メシアとはヘブライ語で、それをギリシャ語に訳すとキリスト、救い主のこと。これがテストなら 100点、満点。合格。これ以上の答えはない、模範解答だと思う。
 日本では誰それをまつった神社なんてのがいろんな所にあるように、人が神になる、人を神にするということにあまり抵抗がないみたいだが、ユダヤ強であるユダヤ人にとって、人を神にするなんてことはありえないことらしい。神は神であり人は人である。人がどんなにえらくなろうが立派になろうが神ではない、人が神になるなんてことはない、神でないものを神とするということは偶像崇拝をするということでユダヤ人はそういうことを最も嫌っている。
 ユダヤ人の多くの人が、イエスのことをエリヤだ、エレミヤだというように預言者の一人だと考えるということは、それが普通の考え方だということだろう。
 しかしそんな中でペトロはイエスに対して、あなたはキリストだと言ったわけだ。もちろんやがてメシアが来てくれるということはみんな知っていた。いつかメシアが来て、世を改めてくれる、と思っていた。しかしそのメシアは王として、政治的な王として来て、列強の支配から自分たちの国を解放してくれる者、そして強力な国にしてくれると思っていたらしい。ペトロもそう思っていたのかも。ペトロがメシアのことを、キリストのことをどれほど分かっていたかはよくわからない。あまりよく分かってはいなかったのではないかと思う。イエスから、あなたはわたしを何者だと言うのか、と問われて、とっさにメシアですと言ったようにも聞こえる。何もかも理解して、これまでのことを総合的に判断して、あなたをメシアだと判断しました、というのとは違うのだろうと思う。
 イエスは、あなたは幸いだ、あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父なのだ、という。イエスのことをキリストだと分からせた、信じるようにさせた、そう告白ささせたのは天の父である神なのだという。つまりペトロが自分で判断した結果、イエスのことをキリストだと判断したのではなく、イエスのことをあまり分かっていない、ほとんど理解もしていない、けれどもキリストだと信じるようにしてくれたのは神自身なのだというだの。
 そしてその上で、ペトロに向かって、あなたの上に教会を建てる、天の国の鍵を授ける、なんてことを言う。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる、地上で解くことは天上でも解かれるというのだ。つなぐというのは閉ざすことで、解くとは開くということだそうで、つまり天の国を閉ざしたり開いたりする鍵をペトロに授ける、というのだ。イエスをキリストであると告白する者に、天の国の鍵を授けるということなのだろう。なんともすごい話しだ。
 家の鍵を誰かに渡すというときには余程信頼できる者にしかしない。イエスは天の国の鍵をペトロに授けるというのだ。

 ペトロがそんなに信頼できる男だったのだろうか。イエスはすぐ後のところで、これからエルサレムへ行くこと、そこで処刑され三日目に復活するという、奥義を示す。奥義を理解してから告白があるのではない。告白の上だけ奥義が示される。
 ところがペトロがイエスをわきへ連れていっていさめはじめた。
 ペトロは、キリストが殺されるなんて、そんなことをいっちゃあいけませんよ、と思っていた。あんたはキリストなんだからそんな自分から殺されるなんていうもんじゃありませんよ、ということなのか。
 あなたはキリスト、生ける神の子ですと告白し、あなたは幸いであると言われたすぐ後で、今度はサタン引き下がれ、と言われている。
 ペトロは十分にイエスを理解していなかった。あるいはまるでほとんど理解できてはいなかったのかもしれない。ペトロの理解では、キリストとは敵を全部やっつけて国を強くするというイメージがあったのかもしれない。ペトロはイエスの十字架と復活を経験してからイエスの真の姿が見えてきたのかもしれない。
 ある人は、十字架はつまずきであり、納得することをゆるさないつまずきであるからこそ、十字架の意味があるのではないか、と言っている。何で十字架なのだ、何で十字架が必要なのか、本当のところは納得することもできないで、ただ受けるしかないということかもしれない。十字架は理解するものではなく、受け取るものかもしれないと思う。
 兎に角、ペトロはイエスに、あなたメシアだと言ったけれども、メシアがなんなのか、キリストがなんなのか、さほど分かってはいなかったということになる。十字架も復活もろくに分かっていなかった。ところが、そんなあまりよく分かっていないと思われるペトロの上に教会を立てる、という勿体ないようなことまで言われている。それでいいのかな、なんて思う。
 しかしイエスは、イエスをキリストだと告白するペトロから、そこから教会を起こしてしまう。
 ペトロの告白は私たちがバプテスマを受けるときの信仰告白に似ている。私たちもイエスのすべてを知らない。本当はほんの一部しか知らないのかもしれない。しかし、少しを知った所から信仰は始まっている。ただイエスがキリストであることを知ったところから、そう信じた所から始まっているのだろう。コリントの信徒への手紙二12:3でも、聖霊によらなければ、だれもイエスを主であるとは言えない、と書かれている。イエスをキリストである、救い主であると信じるところとは、神によってそう信じるようにしてもらった、そこから信仰は始まっている。そうするとバプテスマの時だけではなく、私たちの信仰はいつもそこにある。
 信じて信じてまるで疑わない、疑う心を全部なくしたところ、それこそが信仰であるというような言われ方をすることも多い。けれども聖書によると信仰は、イエスをキリストである、救い主であると告白すること、それこそ信仰なのだ。つまずいたり、間違ったり、失敗したり、疑ったり、そして裏切ったりすることもあるかもしれない。弟子たちはみんなそうだった。しかし信仰とはそんな生活の中に神から与えられた信じる思いなのだと思う。疑いも恐れもかかえたまま、そこでイエスは主であると信じ告白する、神によって神の力によってそうさせてもらう、それが私たちの信仰だ。そしてその上に私たちの教会も建っている。私たちも天の国の鍵は渡されているのだろう。

 「それではあなたはわたしを何者だと言うのか」とイエスは問うている。あなたの親はどうか、でもあなたの教会はでも、あなたの牧師はでもない、社会一般の評価でもない、あなたはどうなのか、とイエスは言われる。私たちはどう答えるのか。「よく分からんけどあなたがキリストであることだけは知っています」というのが私たちの答えかもしれない。あなたはどうなのか、そのイエスの問いをいつも聞き続けていきたい。


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