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礼拝メッセージより
説教題:「主よ、そのパン屑を」 2004年2月15日
聖書:マタイによる福音書 15章21-28節
異邦の地
イエスは異邦の地へ行く。誰にも知られないように。
何で? ファリサイ派と律法学者と汚れについての議論をしたあとだったので、いつも変わらぬユダヤ人らのたかぶりと形式主義を思い知らされ、嫌気がさしたからかも。
ティスルとシドン。フェニキアの港湾都市。地中海岸の北の方。
ユダヤ人から見れば汚れた所。聖なる土地ではないところ。そこにわざわざ出ていかれた。異邦の地へわざわざ行った。そしてそこに住む人々は異邦人。ユダヤ人にとって異邦人とは、ただ単に外国人というだけではなかった。そうではなく、自分たち清い人間とは違う、真の神を知らず偶像を崇拝する汚れた人間。ユダヤ人は異邦人のことを「犬ども」と言って軽蔑した。今の日本人の犬に対する感覚とは随分違う。今の日本で言えば何かな、豚かな、ハイエナかな。それだからユダヤ人は異邦人と接触することさえも嫌った。異邦人の住む異邦の地へわざわざ行く人はいなかった。しかしイエスはそこへ行かれた。
イエスは誰にも知れないように家の中に居た。しかし人々に気づかれてしまった。イエスの評判はすでに知れ渡っていた。テレビもラジオも無かっただろうに。新聞はあったのかな。(本物は放っておいてもすぐにみんなに知られてしまう?逆は真ではないが。)
沈黙
そうしてイエスのもとに汚れた霊につかれた娘を持つ女がやってきた。そうしてイエスの足元にひれ伏した。そして娘から悪霊を追い出してください、と叫んだというのだ。
しかしイエスは黙っていた。弟子たちが、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」というまでイエスは黙ったままである。弟子たちがそれほどに言うということは、かなりの勢いで叫び続けたということだろう。そしてその間イエスは黙ったままだったのだ。
弟子たちがきっとうるさくて追い払ってくれと言った後、ようやくイエスは口を開く。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と。それでも女がイエスの前にひれ伏して、どうか助けてください、と言った後にも、「子ども達のパンを取って小犬にやってはいけない」なんてことをいう。なんと冷たい返事、意地悪いやつという気がする。犬とはユダヤ人が異邦人を見下して言うときの言葉だそうだ。しかもその中でも小さい小犬なんて言った。
でもこの女の人は帰らない。なんとしても、ここで引き下がってなるものか、という感じ。これに対してこの女の人もなかなかユーモアのある返事をする。「主よ、ごもっともです。しかし小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」
自分のことを小犬だと言われただけで、馬鹿にしていると怒っても仕方ないようなことなのに。
とにかく女の人の一途な願いはすごい。パンのかけらでもいいから欲しい。ほんのおこぼれでもいいから下さい、という姿勢。
イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」と言ったという。そして娘の病気はいやされた。
小犬
女は自分のことを小犬だと言われ、それを全く否定しなかった。自分は小犬であることを認めている。自分は小犬に等しい、しかし小犬は食卓から落ちるパン屑を食べるのだ、と言うのだ。
イエスに娘を助けてくれるように願いながらもなかなか聞いて貰えない。ちょっとひどいのではないかと思われるようなことまでいわれる。しかしこの女は自分はそういう人間であると最初から思っていたようだ。助けてくれと言って、すぐに聞いてもらうような人間ではない、食卓に座ってごちそうを食べるような人間ではないと思っていた。だから「こどもたちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言われてもびくともしなかったのだろう。しかしそんな自分でもおこぼれに預かることはできるはずだ、それが彼女の信仰だったのだろう。だからそのおこぼれをくれと言ったのだろう。神の恵みは食卓の上からこぼれ落ちるほどあるということを知っていたということなのかもしれない。
本来私たちは神からはるか彼方にいるもの。神が垣根を作るとすれば、外側にいるべきもの。小犬のように、そもそも一人前にパンを、ご飯をもらえるような分際ではないものなのかもしれない。神に向かって、恵みを、愛を、祝福を、なんて偉そうに堂々と言えない者なのだ。きっと。
私たちは神の真っ当な裁きにあえば罪有るもの、有罪なものなのだ。神に向かってあれしろ、これしろなんて言えた分際ではない。神の恵みを欲しがることなんておこがましい存在なのだ。だが、そんな私たちをも神は救って下さる。憐れんで下さる。恵みを下さる。それは神が自分の垣根を越えて、神と罪人の境界線を越えてやって来てくださったということなんだろう。
イエスが出会い、救われている者はみんな苦悩するもの、重荷と持ってにっちもさっちもいかないようなものばかりだ。追い詰められて、どっちにいくこともできないようなものばかりだ。なりふり構っていられないようなものばかり。今日の女の人のように、なんとかしてほしい、頼むから、ほんの少しでもいいからあなたの力を分けてくれ、そんなことしか言えないようなものばかりだ。そういう人たちのところでイエスは奇蹟を行っているのではないか。
沈黙
しかしイエスの言葉はひどい気がする。後から衣に触った女性には、あなたの信仰があなたを救ったと言ったことがあった。それにくらべたらえらい違いだ。娘を助けてくれと叫んでいるのにすぐに答えることもなく、女を小犬と呼んでいる。これは何なのだろうか。
これほどまでに一所懸命に祈ったのに神は答えてくれなかった、これほど願ったのに神は願いを聞いてくれなかった、だからもう神を信じない、という人がいる。必死に祈れば、祈り倒せば神は自分の願いを聞いてくれるはずではないかと思うことがある。なんとしても聞いてもらわねば、という思いが、いつしか自分の思い通りになって欲しいという強情さになってしまうということがある。
ある牧師が言っている、「熱心に信仰を求め、困難を乗り越え、目覚ましい経験を持っている信仰者に、時にどうしようもなく強情な我のあることを発見する。程度の差こそあれ、みな共通しているに違いない。徹頭徹尾、恵のみだと言いながら、我を張ることを忘れない。信仰が弱いゆえに他人に迷惑を及ぼすというより、信仰が強いゆえに、文句のいえない迷惑を他人に与えることが何と多いことだろう。」
いつの間にか自分が主役になって、神は自分の願いを叶える道具になってしまう、私はこんなに大変だったのにやってきた、こんな困難を乗り越えてきた、もちろん神を信じてとか、恵みを与えられてとは言いつつ、結局は自分の業績や経歴を誇ってしまうようなところがある。そして、そんなのは大したことないとか、もっとしっかりしなさいなんてことになってしまう。
まわりの人に迷惑をかけ、また傷つけるのは所謂信仰の薄い人ではなく、えてして信仰の深い人のようだ。あなたの信仰が足りないからだ、とか祈りが足りないからだ、と言われた人は落ち込むだけだ。
でも私たちが今あるのは、私たちのが深い信仰を持っているからではないはずだ。その代償として神が恵みをくれたのではない。その代償として救ってくれたのではない。イエスの十字架があったから救ってくれたのだ。ただ神が憐れんでくれたからなのだ。
食卓から落ちたパン屑をもらうにふさわしいものである、という女性の言葉を聞いてイエスは安心して喜んだのかもしれない。神と取引をするような信仰ではなく、神から恵みと憐れみのおこぼれをもらうにふさわしいものであることを認めること、それをイエスは立派な信仰、これは大きな信仰という言葉だそうだが、それを大きな信仰と読んだのだろう。
教会はそうやって神の憐れまれている者の集まり。自分の信仰心をいばることのできる人は一人のいない。私たちこそ、こぼれたパン屑をもらうのがふさわしい。主よ、そのパン屑を
。