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礼拝メッセージより
説教題:「逆風」 2004年2月8日
聖書:マタイによる福音書 14章22-32節
解散
五つのパンと二匹の魚で五千人を超える人々を養われたイエスさまは、いったん群衆を解散させる。ヨハネによる福音書6章を見てみると群衆はイエスさまを王にしようとしていたと記されている。奇跡を目の当たりにした群衆は興奮し、そんな人たちが集まると熱狂的になる。しかしそんな群衆をイエスは自ら解散させる。
今日の新興宗教の指導者は、反対に群衆を興奮させて熱狂させて、冷静さを失わせて人をコントロールしようとするらしい。ところがイエスは力ある業、奇跡を行われたあと、必ずと言っていいほど興奮を静めようとする。病気を癒された人にその身に起こった奇跡を言い広めないように口止めをされたことも何度もあった。
イエスは弟子たちをしいて舟に乗り込ませ、向こう岸へ先に行かせたとあるが、それは弟子たちが群衆と一緒に熱狂的になること、あるいは群衆の先頭に立って熱狂することがないようにさせようとしたのかもしれない。
奇跡と言われるようなことができるようんなったら、僕だったらみんなに自慢してまわるに違いないと思う。けれどもイエスはそんなことにはまるで関心がないようだ。反対にこの時祈るために一人山に登ったという。
苦闘
一方弟子たちは、ガリラヤの海の真ん中で逆風と戦っていた。強い向かい風が吹いているために、向こう岸に向かってなかなか前にこぎ出せなかったようだ。かつて嵐にあったときは、イエスさまが共にいて波を静めてくれた。しかし今度はイエスは舟に乗っていない。暗闇の中で孤独な戦いを、弟子たちだけで戦っていた。
そして夜明け頃、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行ったという。果たしてこんなことができたのかと、昔からいろいろと議論がなされてきた。本当にそんなことがあったのだろうかと思う。
私たちには、どういう風にイエスさまが海の上を歩かれたのか、本当にそんなことがあったのかどうかを確かめるすべはない。
しかし弟子たちは、海の上を歩くイエスを見て幽霊を見ているのだとおびえて、恐怖のあまり叫び声をあげたというのだ。イエスに従ってきて、いろんな業もみて、いろんな話しも聞いてきた弟子たちだったが、逆風にあって一晩苦労していたためなのか、イエスだと分からなかったようだ。水の上を歩いてこられたら誰でもそう思うのかもしれないけれども。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」、イエスは恐れる弟子たちにそう話しかけた。
逆風にあって、自分たちだけではどうにもできずにいた弟子たちに向かって、イエスは、大丈夫だ私がここにいる、と言われたのだ。
迫害の嵐の中で苦しみもがいていた最初の教会の人々にとって、何ものにも勝る勇気を与えてくださる言葉です。神さまが共にいて下さるという確かな信頼を与えてくれる言葉です。
このあと、ペテロがイエスさまの力を見、イエスさまの言葉を信じて、自分も水の上を歩こうとして、溺れそうになる。純粋というか単純というか、そんなペトロらしいエピソードだ。ペトロは、「来なさい」というイエスの言葉に従ってイエスのところへ行こうとする。ところが、風を見て恐くなると沈みそうになってしまったというのだ。
しかしそんなペトロをイエスはすぐに手を伸ばして捕まえてくれた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言った。
そして、イエスが船に乗りこんだ時に風が止み、弟子たちは改めてイエスの力を知ることになった。
逆風
逆風吹きすさぶ、というような状況に追い込まれることが私たちにもある。何をやっても前に進まない、何をやってもうまくいかないと思うときもある。弟子たちは夕方から夜明けまで舟を漕いでどうにかして舟を進ませようとしていたがうまくいかなかった。かつて嵐を鎮めたイエスもそこにはいなかった。しかしイエスは離れてはいたけれども、弟子たちのことを放っておいたわけではなかった。まるで知らん顔ではなかった。苦闘する弟子たちのところへ自分から近づいていくのだ。水の上を歩いていくなんてことをしてまで弟子たちのところへいき、弟子たちを救うのだ。
ペトロはイエスの言葉に従い水の上を歩いていくが、風を見た途端沈みそうになってしまったという。イエスを見つめている間は大丈夫だったのに、イエスから目を離し風を見てしまうと沈みそうになってしまった。これはとても象徴的なことだ。
私たちも逆風の中を生きている。いろんな逆風が吹くときがある。そんな時でもしっかりとイエスを見ていけば大丈夫なのだろう。安心しなさい、というイエスの言葉をしっかりと聞いていけるならば大丈夫なのだろう。イエスから目を離すことで、そして風を見ることで恐くなり沈みかけてしまう。しかし風ばかり見てしまうのも私たちの常だ。大変な問題を抱えているとき、私たちはついついその問題ばかりを注目してしまう。いつもいつもその問題が頭の中を駆けめぐってしまうことがある。テレビのコマーシャルで、次の車検にいくらかかるかが心配で心配で、ズボンをはかないでステージに立ってしまうというのがある。心配事で心の中を占領されてしまうと心はどんどん沈み込んでしまう。
確かに心配なことはいっぱいある。みんなそれぞれに心配なことを抱えているだろう。どうにもこうにもうまくいかない、全く前に進めない、そんな重大事を抱えているかもしれない。そんな重大事に、心配事によって沈みかけている私たちをもイエスはきっと手を伸ばして捕まえてくれているに違いない。そして「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と声をかけてくれているに違いない。心配事しか見えない、うまくいかないことがらしか見えない、そしてイエス自身を見ていない私たちに向かって、イエスは、安心しなさい、私はここにいる、私を見なさい、といわれているのではないか。信仰の薄い者よ、とは言われているけれども、その時にはもうすでにペトロの手をしっかりと捕まえているのだ。この言葉はペトロを責める言葉ではないような気がする。
主よ、助けてください
ペトロは風を見て恐ろしくなり沈みかけた、しかしそこで「主よ、助けてください」と叫んだという。助けてくれとすぐに言うところがペトロの単純な所でもあり、良いところでもある。
助けてくれと言える相手がいることはとてもいいことだ。
女子高生コンクリート詰め殺人、とかいう本を読んだことがある。女子高生を何人かで監禁していたずらして殺してしまい、結局コンクリート詰めにしてしまうという話しだったと思うが、その犯人の若者たちの裁判の時だったか、若者たちの親の話しが出てくる。本を読んでいると自分の子どもが殺人犯になってしまった親の苦しみが伝わってくるようだった。現に事件を起こしてしまっている、とんでもない事件を起こしてしまっている、相手は殺してしまっている、親は苦しくて苦しくてどうにもならないという感じだった。それを読みながらふと思ったのが、この親たちはどうして祈らないのだろう、ということだった。どうして祈らないのだろう、祈るということを知らないのだろうか、祈る相手がいないのだろうかと思った。
助けてくれ、と言える相手がいること、そう祈る相手があることはとても幸せなことなのだと思った。どうにもならないと思えるような苦しみもある。そんな時に、助けてくれと祈れる相手があることはどんなに幸せなことだろうかと思う。いつも共にいる、いつも聞いている、そう言ってくれる相手がいることはどんなに幸せだろうかと思う。
私たちの人生にもいろんな逆風が吹く。それぞれ大変なことだ。けれども私たちにはイエスがいる。どんな大変なときでもイエスが共にいてくれる。助けてください、と言うことのできる相手がいつも共にいる。
天と地とあらゆるものを支配している、その方が、安心しなさい、恐れることはないと言ってくれているのだ。私たちの目でそのイエスの姿を見ることはできない。けれどもいつも、どこにいても共にいる、それがイエスの約束なのだ。目に見えないところで私たちを支えてくれている、そのイエスの声を聞いていこう。