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礼拝メッセージより
説教題:「悪霊を追い出す」 2004年1月25日
聖書:マタイによる福音書 12章22-32節
心霊写真
子どもの頃からテレビをよく見ていた。そしてテレビからいろんな情報を仕入れていた。テレビの言うことは正しいことなのだと思っていた。大予言とかUFOとかも本当のことだと思っていた。
でも最近のテレビはおかしいと思うことが多い。悪者というレッテルを貼られた者にたいしては徹底的にやっつける。カルト集団のやっていることはどんなにおかしいか、間違っているかというようなことを繰り返し放送する。あなたがこれをやらないと先祖がたたるとかなんとかいうような人間の恐怖心を煽って、人をだまして人を縛り付けて金儲けをしている、というような批判を繰り返ししていた。
そうかと思うと同じ放送局で別の時間になると、心霊写真だと言ってここに霊が写っていますとか言って、霊能者という人が登場して、これはここで殺された人が成仏できないでいる、何か訴えているとかいうようなことを、まるでそれが何の疑いもない真実であるかのように放送している。カルト集団がやるとおかしなやつらだと言う、それと同じ事をテレビでやっているじゃないかという気がして仕方ない。そんなのをまじめに見る方がおかしいということなのかもしれないが。
悪霊
悪霊って何? そんなのがいるのだろうか。悪霊なんて聞くと心霊写真だと言われるような物に写っているいる、なんだか得体の知れないものというようなものを想像してしまう。テレビの見過ぎか。
でも悪霊がテレビのいうように、どこかにいてたまたま通りすがりに取り憑くようなものならば、背中に取り憑いてちょっと悪さをするというようなもので、そして霊能者に頼めば取り除けるようなものならば話しは簡単だ。
けれども、聖書教育によると、悪霊とは、人を神から引き離し、不安と空しさ、絶望と虚無に追い込む勢力。人を憎しみと争い、さらに殺人の狂気へと駆り立て、人と人、神と人との関係を断ち切る強力な闇の力だと言う。
ということは、悪霊とは、背中にちょこっと乗っているようなものではなく、人間の心の奥から人間を揺り動かすような闇の力であるということだ。不安になったり空しくなったり、あるいは憎しみを持ったりする、そんな心の奥からしみ出てくるような思いを持たせる、それが悪霊の力だという。
まるで人間の存在を根っこから揺さぶる力を持っているかのようだ。だからファリサイ派は、悪霊の頭によって悪霊を追い出しているとしか思えなかったのだろう。とても人間の力によってどうにかなるものではないと分かっていた、けれどもイエスがメシアである、キリストであるとは絶対に認めたくない、そこで彼らの結論は悪霊の頭が悪霊を追い出したということになったようだ。
神の国
しかしイエスがいうように、内輪で争う国が成り立っていかないように、悪霊を追い出したのは神の霊の力によってしか追い出せない。そして神の霊によって悪霊を追い出しているのだとしたら、それは神の国がここに来ているということだとイエスは言う。神の国はもうここに来ているというのだ。
神の国、天の国、天国、いろんな言い方があるが、それらは死んだ後に行くところというような感じがする。けれどもイエスが来てそこで神の力で悪霊を追い出しているところはもうそこが神の国である、天国であるというのだ。死んだ後でも死ぬ前でも、神の支配があるところ、神の力が及ぶところ、それこそが神の国なのだ。
その神の国がもうここに来ているというのだ。悪霊はもう縛り付けられている、もう神の支配下にあるのだ。イエスが伝道を始めた初めの言葉は、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさいということだった。
イエスが来たこと、そして悪霊に取り憑かれている者を癒したことは、神の支配がここにあることを現している。
そういう風に私たちはもうすでに神の国の住人とされているのだ。
確かに私たちには依然として不安もあり空しさを感じることもある。憎しみもある。そういったものを持っているのは事実だ。けれどもそれはいまだに悪霊に支配されているからではないのだ。確かに罪はある、けれども私たちはもうすでに神の支配下にある、神の国にいるのだ。だからいつまでも悪霊に脅かされるというような思いに怯える必要なないのだ。
赦し
すべての罪は赦される、人が犯す罪や冒涜はどんなものでも赦されるとイエスは言う。しかし、霊に、つまり聖霊に対する冒涜は赦されないという。また、人の子に良い逆らう者、つまりキリストに良い逆らう者は赦されるが、聖霊に良い逆らう者は赦されないという。
何だかよく分からないという気もするが、どうやらこれは、聖霊を冒涜するとか聖霊に逆らうというのは、すべての罪は赦されるということを認めないことらしい。すべての罪は赦されるということを信じない、認めない者にとっては、赦されているという安心と喜びはないわけで、そういう者が聖霊を冒涜し言い逆らう者なのだということかもしれない。
私のこの罪は赦されるわけがない、あるいはあの人のあの罪だけは絶対に赦されはしないというように限定してしまうこと、それは神の力を限定してしまうこと、神の許しを限定してしまうことであり、それが聖霊を冒涜するということなのだろう。
私たちの全ての罪は赦される、そして神の国の住民とされている。あるいは今自分はぼろぼろかもしれないし、罪だらけかもしれない。まるで悪霊に完全に支配されているような有り様かもしれない。しかしイエスにはしの悪霊の束縛から私たちを解放する力があるのだ。そしてもう私たちを神の国に招き入れてくれているのだ。それを否定するのではなく、疑うのではなく、反対にそのことを喜び、安心して生きなさい、私を見なさい、私の力を見なさい、そして信じなさい、イエスはそう言われているのではないか。