聖書:マタイによる福音書 9章35節−10章15節
選び
イエスは12人の弟子を選び、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやす権能を授けた。12使徒と呼ばれる人たちをこの時選んだ。そしてこの12人をすぐに派遣する。
そしてそれは、イエスが群衆の姿を見ての行為だった。つまり、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた、その結果12人を選んだ。
汚れた霊に対する権能を与えられた弟子たちだったが、彼らの与えられた指示はびっくりするようなものだった。イエスが持っていけといったものはつえとはきものと着るものだけ。しかし、その他のもの、袋も、これは施しを受けるためのものらしいが、帯のなかに金も持つな、また下着も二枚着るな、という。これは当時は身の安全のための重ね着をしたらしい。
派遣
彼らは二人ずつ組にされ遣わされた。彼らは二人きりで旅をしなくてはならない。けれども食物や金はいらないのか。また当時の旅は今の日本とは比べ物にならない危険なものだったようだが、自分の安全を図る必要はないのか。これではあまりにも簡単すぎる、あまりにも少なすぎる、あまりにも何もないではないか、と思う。
ある人はここを説明して、彼らは差し迫った神の国の到来を告げる緊急の使者なのだから軽装なのだという。しかし、ここには急ぐようにという指示はない。ある家にはいったらその土地を去るまでその家にとどまり、じっくりとやりなさい、と言っているように思える。
またある人はここで、神の守りと日々の糧が与えられることを信じられるよう、彼らを訓練しようとされているという。
確かにそうかもしれない。しかし彼らが何も持たないことが訓練のためだという言葉もないし、旅先でも神が守ってくださり、神からの援助があるのだから安心しなさい、というような言葉もない。
それどころか、14節には彼らが迎え入れられない時についての指示が与えられている。足の埃を払い落とせ、という指示。当時はユダヤ人は旅をして異邦の土地から戻った際、そこでついたと考えられる汚れを落とすという意味で、ちりを払い落としていた。弟子たちがこれをするということは、その土地の人々に向かって「あなた方は、主イエスの福音を拒むことでユダヤ人でありながらも神の選ばれた神の民ではなく、異邦人なのだ、あなたたちは自分はユダヤ人だと言って異邦人を見下しているが、あなた方こそ神から遠く離れている異邦人そのものなのだ」という宣告を下すことになる。
ともあれ、イエスは弟子たちが受け入れられない場合があることを予告している。にもかかわらず、彼らが殆ど何も持たずに旅立たなくてはならないのは何故なのか。聖書は語らない。
しかし、とにかく何も持たないで出ていった弟子たちは教会の宣教の起源である。イエスの宣教とは「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」と告げることである。弟子たちもイエスと同じように人々が悔い改めるようにと宣教したことであろう。
神の国の福音は、ただ人を精神的に向上させるためのものではない。時々、精神修養のために教会に来る、という人がいる。自分にとって何か役に立つことがあれば取り入れようか、自分の人生に足しになるものがあれば貰っておこうかという気持ちのような気がする。
しかし福音とは、悔い改めを起こさせるものである。悔い改めとは生きる方向を変えることだ。今までの過去の生き方とは決別し、全く新しい自分を生きようとさせるものである。自分の力だけで生きようとすることをやめ、神の力によって生かされようとすること。福音には生きる方向を変える力がある。イエスの福音にはその力があり、人が新たに生きるために力をも与える。だからそのイエスの言葉を伝え、イエスの言葉を、聖書の言葉を伝えていく、それが教会の宣教、伝道である。
そして弟子たちはその福音を何ももたないままに伝えていった。
何もない
しかし本当に大丈夫なのかという気がする。彼らは何も持たないで出掛けた。特別な訓練もしていない。特別な才能を持っていたわけでもない。イエスの選びには何の一貫性も見いだせない。
彼らは何も持たなかった。袋も金も、そして才能も訓練も、経験も何もなかった。彼らにあったのは、ただイエスの命令だけだった。イエスの命令、イエスの権威だけを持って出ていった。
何も持たないで出掛けた彼らは、神の国の到来を告げ、悔い改めを起こさせ悪霊を追い出し、病を癒した。
そしてこれが教会の原点でもあるのだろう。教会はイエスに呼び寄せられた者の集まりである。そして私たちも派遣されていく者でもあるのだあろう。
イエスは私たちをも遣わしているのだろう。ちょっと待って、と言いたくなる。いや実際いつも言っている。もう少し聖書の知識を持ってから、もうちょっと自由な時間を持ってから、あれが出来るようになったら、これが出来るようになってから、もうちょっと自信をもってから、もうちょっとお金に余裕を持ってから、もうちょっと信仰を持ってから、なんてことを言う。
人間は何でも持つことが好きだ。しかし持っているものまでもイエスは置いていけ、と言われる。自分の中にある自信も、自惚れも、優越感も、また自己嫌悪も、敗北感も、劣等感も全部おいていけ、と言われているようだ。
ただイエスの命令によって、ただイエスの権威だけを持って出ていけ、出ていって告げよ、福音を告げよ、と言われているのではないか。さあ行きなさい、伝えなさいとイエスは言っているのではないか。あれがない、これがない、あれが足りない、これも足りない、と私たちはすぐに言う。でもイエスはそれで充分だと言っている。何もいらない、み言葉だけを持って出掛けなさい、と言っているのではないか。
憐れみ
最初に言ったように、イエスは群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた、そこで12人を選んで派遣した。深く憐れむという言葉は、腸がちぎれるという意味の言葉だそうだ。
私たちは派遣される側がどんな状態かということを一所懸命に気にする。しかしイエスは派遣される側、群衆がどんな状態なのかを気にしている。福音を必要としている人がそこにいるからイエスは弟子たちを派遣した。憐れむべき人がそこにいるから、イエスは弟子たちを派遣した。弟子たちにどんな能力があるかなんてことはほとんど問題ではない。むしろ何も持たないで行くように、ただ憐れみと、イエスの言葉、それだけを持って行くようにと言われている。必要としている人がいるから福音を伝えなさいと言われているのだ。教会として考えると、教会を大きくするために、財政を豊かにするために、あるいは能力のある人がそこにいるから、奉仕する人がいっぱいいるから、福音を伝える、のではなく、福音を必要とする人がそこにいるから福音を伝えるのだ。だから福音を伝えるということは、教会の中の都合に合わせるのではなく、教会の外の都合に合わせていくものなのだろう。そして教会の中にイエスの言葉があれば、それでもう準備OKなのだ。
正しいことをしていたら必ず結果がついてくるとも言われていない。それを聞いた人たちが必ず悔い改めるとは言われていない。受け入れて貰えないときもある。けれども結果がついてこないから駄目だと考えることもないということだ。結果にさえも縛られずに、ただ福音を伝えていきなさいと言われているようだ。能力があるとかないとか、結果がでるとかでないとか、そんなことに縛られるのではなく、そんんこともみんなどこかに置いておいて、ただイエスの言葉を伝えていくように、イエスは私たちにもそう言われているのだろう。