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礼拝メッセージより
説教題:「だいじょうぶ」 2004年1月11日
聖書:マタイによる福音書 9章18-26節
なりふり構わず
後から来たトラックに追突されて車が燃えてしまい、後部座席にいた子どもが亡くなったということがあったが、そんな時の親の気持ちを考えると想像するだけでぞっとする。
親にとって一番辛いのは自分の子どもの死である、と聞いたことがある。誰にとっても身近な者の死に接するのはとても悲しいことだ。それが自分の子どもとなるとどんなだろうかと思う。本当は考えたくもない。
ある指導者がイエスの側にきた。マルコによる福音書ではヤイロという会堂長だと書かれている。ユダヤ教の会堂の管理人。キリスト教で言えば教会の牧師のようなものだろう。会堂は安息日に礼拝をするところでユダヤ人にとっては心の拠り所であるだけでなく、そこは子ども達を教育するところでもあり、実際の社会生活の中心でもあった。今の日本の教会の牧師は大した権威はないが、当時のユダヤでは生活と宗教とが密着していて、会堂の指導者は人々から尊敬され、社会的信用の深い人物であり、社会的な影響も与えていた。そんなユダヤ教の指導者がこともあろうにイエスのそばに来てひれ伏したというのだ。
ユダヤ教は先祖代々伝わっている律法を大事にしてその律法を厳格に守る集団だった。ユダヤ教徒たちは律法にどう書いているか、ということをそのまま守ろうとする、そして書かれていないことに関してもどうすべきかということを細かく決めて守るような人たちだった。
伝統的なユダヤ教の者たちにとってイエスは、自分を神の子だといい、律法の字面よりも律法の精神を大事にし、律法の文言にしばられることなく、当時のしきたりを公然と破る異端者であり、敵対者であった。宗教的な反逆児というだけではなく、社会を乱す悪人でもあった。実際ユダヤ教の指導者たちはイエスの命さえもねらっていたのだから。
しかし、娘が思い病気になり死んでしまうという事態が起こったとき、この指導者が助けを求めに行ったのはイエスだった。イエスのところへ行こうと思うまでにはいろんなことがあったに違いない。指導者であるという立場上からは、たとえイエスが病気を癒したりいろんな奇跡を行っていることを知っていたとしても、簡単にいくことはできなかっただろう。(障害をもった子の母親の話。教会だけは行かなかった。最後の最後にやってきた)。
しかし、今自分の上に大きな災難というか、娘が死ぬという最大の危機に直面したとき、自分の社会的立場も、名誉も、世間体も捨てて、この指導者はイエスへと向かっていった。
大事な娘を何とかしてほしい、あなたなら、あなたが来てくれたら娘は生き返る、相当滅茶苦茶なお願いをしている。死んだ者を戻してくれと言っている。
しかしイエスはこの指導者の願いを聞き入れてこの娘を甦らせたというのだ。死んでいるのではない、眠っているのだとイエスが声をかけると少女は起き上がった。
イエスは死さえも眠りに変えてしまう。そんな方なのだ。イエスは死をも支配している。生きることも死ぬことも神が支配していることをイエスは言いたかったのではないか。
人々はあざ笑った。
死は本来絶望以外の何物でもない。人はしかし死を自分のこととしては真剣にとらえようとはしない。「人は、自分以外のものは必ず死ぬと思っている」という言葉があるそうだが、自分の死も家族の死もなんとか避けたいと思うようなところがある。なんとかその死から遠ざかり、死に触れないように、死の不安と恐怖からなるべく遠いところにいることが幸せであるかのように思う。病気になっても何とかして死なないようにさせようとするようなところがある。
けれども人間はいつかは死ぬ。この娘ももちろんあとで死んだのだ。人間を死なないように、あるいは死ぬような病気を治して死から遠ざけること、それが一番大事なことではないだろう。死はやってくるのだ。私たちにとって大事なのはその死をも支配している神がここにいること、死をもそして生きることをも支配しているそんな神がそこにいる。イエスはそのことを私たちに教えてくれたのだ。私たちは生きることも死ぬことも支配しているそんなイエスを信じている。
信仰
この指導者はイエスの真正面に立ち、イエスに願い出て、イエスの力を見せてもらった。そしてちょうどこの時反対に後からイエスに触った女性がいたことが書かれている。
この女性は12年間も出血が続いていたという。レビ記によると、女性は生理の間7日間汚れた者とされて正常な社会生活ができなくなるそうだ。それが12年間出血しているとなると、12年間まともな社会の一員として認められないままでいたということになる。12年間汚れた者であるという烙印を押されたまま生きてきたということなのだろう。彼女はそんな負い目をずっと背負わせてきたのだ。だから彼女は後からイエスの服の房に触れることしかできなかったのではないかと思う。房にでも触れば治してもらえるかもしれないという淡い期待をもっての行為だったのではないか。だからイエスの前にひれ伏してお願いすることができなかったのではないかと思う。
ところがイエスはこの女性に、「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言ったのだ。
触れれば治る、なんていうのはほとんどまじないのようなものではないのかと思う。後から触るなんてのも何だか卑怯な方法のようにも思える。本当に信じているならユダヤ教の指導者のように真正面からお願いするのが筋ではないのかとも思える。
でもイエスはあなたの信仰があなたを救ったというのだ。そしてマタイはそのイエスが声をかけた時に彼女は治ったと書いている。
これが信仰なのかと思えるような信仰だ。イエスのこともそれほど知っているわけでもなかっただろう。ただ何とか助けてほしい、どうにかしてほしい、そんな思いをもって後からイエスに触る、それをイエスはあなたの信仰だと言い、あなたの信仰があなたを救ったというのだ。
信仰とはよく分からないけれどもこの女性のようにイエスに賭けることのようだ。そしてイエスはそんな信仰に応えてくれる。イエスは女性を癒すだけではなく女性に声をかけた。実はそれこそが救いなのだ。イエスとの交わりを持つこと、それこそが救いなのだ。
信仰とは自分が何もできない無力な者であることを知ること。死に対して何も手を打つことができない、それ以外でも自分の力ではどうにもならないことがいっぱいある。私たちはなんとも無力な生き物だ。けれどもイエスに縋ることができる。イエスに向かって、助けてくれと言える。それが私たちの信仰なのだ。
そんな私たちにもイエスは応えてくれる。こんな私たちをイエスは招いてくれている。そこに私たちの希望がある。