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礼拝メッセージより
説教題:「疑いの中で」 2003年12月14日
聖書:マタイによる福音書 1章18-25節
予定変更
人は皆だれも、それなりにいろいろと予定を立てて、この時にこれをして、この時間にはこれをして、その後にはこれをして、と考えながら生きている。すぐ先のことであれば具体的に決めているときもあれば、遠い将来のことのように漠然としているときもある。どこかの有名私立中学を受験するとか言う小学生が、将来何になりたいかと聞かれて、みんな弁護士だとか、大蔵省に入るとか医者になるなんてことを言うのを聞いたことがある。ところがなかなかその予定どおりにいかないのが人生である。明日のことだって、今日のことだって予定どおりにいかないことがある。僕もそうだ。土曜日には時間があるからその時に説教の準備ができるだろう、と思っていたら、突然用事ができて、準備ができなくなってしまうことがよくある。だいたい体の具合が悪くなるのは説教ができていない土曜日と決まっている。予定していたことが狂うと大変だ。
聖書の中にも予定が狂ってしまった人物がいる。その一人がヨセフだ。クリスマスの主役はイエスとマリアということに相場が決まっている。それに付け足しのようにでてくるのがヨセフ。イエスの生涯の最初にだけ現れ、たちまち消えてしまう人物。イエスは戸籍上はヨセフの子ということになる。マタイによる福音書の最初に系図が載っていて、その系図によるとイエスはヨセフの子どもとして書かれている。しかし血筋から言うとイエスは彼の子ではない。そしてイエスと言う名前も、天使がそのようにつけなさいといわれたものでヨセフが付けたものではない。
神のよって、聖霊によって身籠もった子どもとはいっても、自分の血を分けた子どもではないイエスの父親となるようにさせられた、このような不条理を背負わされた男がヨセフ。
疑い
ヨセフはマリアと婚約していた。幸福の絶頂にあった。きっと新しい家庭、つつましいマイホームを夢見ていたであろう。甘い生活を夢見ていたであろうヨセフを奈落の底につきおとす事件が起こる。それは許嫁のマリアが妊娠してしまう。全く予定外の出来事が起こってしまったのだ。土曜日に具合が悪くなるなんてことよりももっともっと大変なことだ。
ヨセフはユダヤ教徒だった。その頃ユダヤ教の会堂では学校のような役割も担って子どもの教育もしていたそうだ。ヨセフも小さいころから聖書を学んでおり、律法もよく知っていたであろう。そしてその律法には姦淫の罪は石打ちに刑にあたるということももちろん知っていた。
マリアは一体誰と、どうして、ヨセフはさまざまな思いに、疑惑に苦しめられたに違いない。もし、このことを表沙汰にしてマリアを訴えれば、マリアは姦淫の罪を犯したとして石打ちの刑に処せられることも知っていただろう。ここでヨセフは悩む。
婚約の段階での離縁は、正式に結婚した後に比べれば比較的簡単であった。法廷に持ち込むことなく、離縁状を渡したことを証明する二人の証人がいれば良かった。あるいは妻のことを公にして問い詰めることもできたけれども、いずれにしても、こうした手続きをとらない婚約破棄は許されなかった。
愛し合い、将来を約束しあったマリアを死に追いやることなどできないヨセフは、律法の正しさとマリアへの愛との相反する二つの思いに、悩み苦しんだことだろう。ヨセフはマリアの姦淫の罪をあばき、彼女をさらしものにするに忍びなかった。そこでひそかに二人の証人の前で離縁状と手切れ金を与えて離縁しようとした。それがマリアを愛したヨセフにできる最大の思いやりであっただろう。
ヨセフにとってはそれは正しい方法であった。律法に照らし合わしても、何の落ち度もなかった。誰からも非難されることもなかった。そうすることのよってヨセフはマリアと、周りから「姦淫の女」として見られるマリアと手が切れるはずであった。
しかしマリアはどうなるのか。マリアは離縁されたあと大きなお腹をかかえてどこへ行くのか。生まれた子は父のない子として生涯その負い目を担っていかねばならない。マリアは悪いことをしたのだからそれは当然受けねばならない罰だ、と言ってしまうこともできる。だから罪人がどうなろうと、そこまでは責任は持てん、と言われればそれまでだ。
ヨセフは正しく生きていた。原則どおり生きていた。理屈どおり生きていた。「ヨセフは正しい人だった」と聖書にも書いている。そして密かに離縁する、という正しい選択をしようとしている。律法的、法律的には正しかった。しかしその正しさは間違いを排除していく、間違ったものを切り捨てていく正しさだった。そしてその正しさはマリアを窮地に追いやる正しさでしかなかったのではないか。その正しさは、マリアとの関わりを絶ってしまい、マリアを愛することを止めてしまう、そんな正しさだった。
恐れるな
主の使いはヨセフに夢の中で「恐れるな」と告げる。この出来事は神の仕業なのだという。だから恐れることはないという。この主の使いの言葉がヨセフを正しさから、マリアを愛する方へ引き戻す。
愛するとは自分の持っている正しさという陣地から出ていくことではないか。自分が正しい側にいつづけたいと思うならば、本当には人を愛することはできないのかも。自分が正しい側から出ていくことが人を愛することではないか。
そのためには勇気もいるし、そこには恐れもある、世間の非難を受けることになるかもしれない。正しい世界にいる者からは、あいつは何をやっているのか、ということになるのかもしれない。それまで通り、いままで通り、正しい世界にいたほうがきっと楽だったのだろう。ヨセフにとっても、ここでマリアと縁を切っておいた方が楽だっただろう。その後に何が起こるか分からない面倒なことに関わらずにすんだであろう。周りからの非難されることもなかったであろう。
しかし主の天使はそんなヨセフに対して恐れるなと告げる。恐れず出ていけ、と告げる。もしマリアが自分の正しさの外側にいるならば、そこに出ていきなさい、と告げる。出ていくことにブレーキをかけるものがある。マリアへの疑惑がきれいさっぱり亡くなっていたかどうかもわからない、そもそも聖霊によって身籠もるとはどういうことなのか、そんな不可解な訳のわからない出来事に直面しているのだ。それらを乗り越えていくことは容易ではない。ヨセフだって、自分の正しさを乗り越えてマリアとずっと一緒にいたいという思いもあったのだろう。しかし自分の正しさの境界を乗り越えて出ていくことはとても難しいことだったに違いない。
しかしヨセフは神の使いの「恐れるな」ということばによって乗り越えていったのではないかと思う。きっと神が乗り越えさせて下さった。
インマヌエル
インマヌエル、神はわれわれと共に、神が共にいたからこそ、ヨセフはこのわけのわからない事態を受け止めることができた。正しい世界の外に出ることができた。マリアを受け入れることができた。それよりもなによりも、神自身が正しい側にじっとしていることをやめたから、正しい所にいて、それはだめだ、罪を犯したものは罰する、ということをやめて、自分から罪の世界に来てくださったからこそ、罪の世界にいる私たちのところに来てくださったからこそ、ヨセフもマリアの所へ出ていくことができた。
神が共にいるからといって、そこからヨセフにとって平穏無事な世界が始まったというわけではなかっただろう。いろいろな思いに揺れる人生が待っていたに違いない。しかし、神はそのヨセフと共におられた。いろんな疑惑がまたよみがえってきて心が揺れるような時も、あるいは弱気になって投げ出したくなるような時もあったのではないかと思う。しかしきっと神はそんな心揺れるヨセフと共に揺れて下さったのだと思う。神が共にいるとはそういうことなのではないか、と思う。神が共にいるということは、全く揺れなくなると言うことではないだろう。私たちが揺れる時にもいっしょに揺れてくれる、それがインマヌエルの意味なのだと思う。
昔、バプテスト誌の中である教会の牧師のこんな話が載っていた。
若い夫婦で二人とも小学校の教師をしている人の話二人に子どもができたが、その子は妊娠しているときに重い障害を持っていることが分かり、医者から中絶を勧められた。けれども、どうしても決断できず、夫がその教会の幼稚園の卒園生だったこともありこの牧師のところに相談に来た。相談と言っても、本人たちはその時にはほとんど産む決心をしていたようだったそうだ。そして子どもを産んだ。その子は医者の診断どおり、自分の力では生きることができず、28日間の生涯を閉じた。その後、夫婦は礼拝に出席するようになった。
2年後の永眠者記念のときにその婦人がこう語った。「今わたしの体内に新しい命が宿っています。もちろんうれしさがありますが、同時にはじめの子のことが頭をよぎり、心配の余り『どうか五体満足で産まれてきて』と願っている自分に気づき、はっとします。そしてそう願っていることをはじめの子に申し訳ないと思うのです。今私はこの両方の思いの間で揺れています。」この牧師はこれに対してこう結んでいます。「私たちはこの真実な言葉の前で、気休めや分かったような理屈で慰めることをやめて、この夫婦の『心の揺れ』と共に私たちも揺れさせていただこうと決意したのでした。」
神が共にいる、ということは私たちが泣いているときには一緒に泣いて、笑っているときには一緒に笑って、揺れるときに一緒に揺れて、苦しんでいるときには一緒に苦しんでくれているということなのではないか、と思うのです。
この子は自分の民を罪から救う、と言われている。イエスの誕生は、私たちを罪から救い、神が罪人である私たちといつも共にいることを示すことがらだった。神が私たちの側へ、罪人の側へ来てくれた、神が愛をもって自分の陣地から飛び出してきたことを示すことがらだった。クリスマスはそのことを感謝し、喜ぶ時なのだ。