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礼拝メッセージより
説教題:「誘惑の中で」 2003年12月7日
聖書:マタイによる福音書 4章1-11節
誘惑
奇跡的なことを起こしてみろ、という誘惑、それはまた私たちが願うことでもある。奇跡的なことを起こして欲しいと願う。神なんだからそれくらい出来るだろう、そうしてこそ神ではないか、なんてことも思う。しかしそれこそが悪魔の誘惑なのかもしれない。
悪魔は聖書を引用して誘惑した。都合のいいようなところを選んでいるわけだ。おかしたところを引用していくことは悪魔の仕業なのかもしれない。もちろん悪魔が矢印の形をした尻尾をつけて、槍をもって目の前に現れるというわけではない。それなら悪魔の言うことを聞かないようにすることも簡単だ。でも悪魔の誘惑はそんなものではないのだろう。心の中に沸いてくる欲望となっていく誘惑らしい。そして私たちの思いと心を神から遠ざけていく。私たちを神から遠ざけていく欲望こそを、悪魔の誘惑と言うのかもしれないけれども。
パン
最初に悪魔は空腹になったイエスに、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言ったという。
人はパンがあれば生きていける。そして誰もがそのパンを一所懸命に求めている。いっぱいお金を持っていれば食べ物の心配をすることもないだろうと思う。
プロ野球の有名な選手は一年間に何億もの給料を稼ぐと聞く。そんなのを聞くと羨ましいし、自分の給料との余りの違いの呆然とする。何億とまではいかなくても、安定した高い給料を稼ぐために、良い職業につくことをめざし、そのために良い学校にいくことをめざし、そのために塾にいくというようなことも聞く。確かにそうやってうまくいけば給料の高い職業につけるだろう。そうしたら毎日のパンの心配もあまりしないで生きていけるだろう。パンがあれば確かに生きていける。しかしただパンがあればそれでいいのかどうか。兎に角パンを食べ命を長らえればそれでいいのかどうかということだ。
もちろんパンがないと、食料がないと生きてはいけない。戦争中は食べ物がなくて辛い思いをしたということはよく聞く。そしてそんなことがないようにということを目指してきた。そして飽食の時代となった。食べ物が満ちあふれるようになれば、ただそれでみんなが幸せになれたわけではなかった。
食べ物も電気器具もいっぱいある、いろんな道具もいっぱい出来た。生活は便利になった、なのにどうしてこんなに悪い世の中なのか、なんて声も聞く。食べ物や物では満足できない、それだけでは満たされないものが人間にはあるということだろう。イエスは、人はパンだけではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きると言った。神の声によって生かされているというのだ。人間とは神に言葉によって生かされている生き物であるというのだ。
どこかの国で、生まれたばかりの赤ん坊に、ミルクは与えて必要な世話はするけれども、全く声をかけない、愛情をかけないという実験をしたら、赤ん坊は生きていけなかったということを聞いたことがある。どれほど信憑性があることか分からないけれども、私たちにとっては似たようなところがあると思う。私たちにとって神の言葉は、赤ん坊に対する親からの語りかけのような、私たちを生かす言葉なのだ。そして食べ物も実は神から与えられているのだ。
神を試す
次に悪魔は、イエスを神殿の屋根の端に立たせて、神の子なら飛び降りてみろ、天使が支えるからと言った。神が助けてくれるかどうか試してみろ、と言った。
どうか奇跡を起こして私を助けてください、私のために奇跡を起こしてください、と私たちも願うことがある。奇跡的に病気を治してください、奇跡的に試験に合格させてください、奇跡的に金持ちにしてください、、、。願いを叶えてくれたら信じます、という風に思う。叶わないなら信じないとも。
しかし人はしるしを求める。イエスに神の、キリストのしるしがあれば信じようという。あるいはそのしるしがあれば安心できると思う。しかしイエスはしるしというしるしはひとつしかないと語っている。それはヨナのしるしである。
マタイ12:39 イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。 12:40 つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
つまり十字架と復活、それが唯一のしるしであるというのだ。もうすでにしるしは与えられている。私たちを赦し、私たちを神の子としてくれるための神の業はもうすでに起こっている、私たちはもうすでに赦され、神のことされているのだ。
神を試みるものは、これまでの神の恵みに満足していない。まだまだ満足しない、まだまだ安心できない、だから神を試みる。あれもしてくれ、これもしてくれと思う、奇跡を起こしてくれと思うとき、それは私たちが神の恵みを忘れ、感謝する思いを忘れてしまっているという時なのかもしれない。神の導きと守りを信じられないで不平を言っているようなものかもしれない。そんなだらしない神でどうするんですかと文句を言っているようなものかも。
悪魔崇拝
次に悪魔は、イエスを高い山に連れて行き、私を拝めばこれをみんな与えようと言った。世の中のものを全て貰えたらどんなだろうと思う。世の中の権力を全部自分が握れたら何をするだろうかと思う。きっと、独裁者のようにするだろうなと思う。何でも自分の思い通りにできるとしたら、まるで自分が神になったように、なって独裁者のように自分の欲望を丸出しにしていくだろうなと思う。でも反面、そうなったとしたらとても淋しく不安になってしまいそうでもある。自分の欲望を通すこと、自分のわがままを通すことは、その時には気分がいいのかもしれない、けれどもそうできたとしてもその喜びはすぐなくなってしまうような喜びでしかないと思う。自分のわがままをまき散らすことはできても、反対に周りからは何も受け取らないということになる。すべてを自分のものにすると、誰からもなにも貰えないということになる。
誘惑
イエスは悪魔の誘惑に、聖書を引用して対抗した。
悪魔の誘惑は、人間として、人間とともに生きていこうとしているイエスに対して、神となれ、人間から離れろ、と言っているようなものだった。人間なんかのことは放っておいて神らしくしてなさい、俺と手を組んでしたい放題すればいいじゃないか、というようなものだった。
けれどもイエスは神らしくすることはしなかった。神の力を権威を発揮することをしなかった。ただ聖書で答えただけだ。イエスは人間の側に立って、人間と同じようにしようとしている、飽くまでも人間と共に生きようとされているかのようだ。
イエスはどこまでも、十字架につけられても、神の力を発揮せず、人間と共に生きようとされた。人間の弱さと罪を全部背負って、十字架につけられたのだ。イエスはそうやって私たちと共にいるという仕方で私たちを支えてくれているのだ。神の力を見せつけることで、神の力を発揮することで無理矢理に何もかも有無をいわせず外側から無理矢理に力ずくで自分の思い通りにさせるのではなく、私たちの側にいて私たちを愛するという仕方で、私に従ってくるようにと呼びかけるという仕方で私たちを招いているのだ。
悪魔の誘惑を退けた、それはイエスが私たちと共に生きようという、私たちの罪も何もかも全部背負っていこうという決意の表れでもあるのだろう。
イエスは誘惑に対して聖書で答えた。実は答えは聖書にあるのだ。聖書の中に書かれている。私たちにはもう答えは与えられているということだ。そしてイエスは世の終わりまで私たちと共にいる、それが私たちに対する約束である。私たちと共にいるために、そのことを私たちに告げるためにイエスは生まれたのだ。