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礼拝メッセージより
説教題:「約束」 2003年11月30日
聖書:民数記 32章1-32節
仲間割れ
出エジプトから40年近く経ち、イスラエルの民はいよいよ約束の地へと近づいてきた。神の約束を信じなかったということで最初の世代の者は約束の地へは入ることはできなと言われていた。そして40年近くが経ち、最初の世代の多くの者はすでに亡くなっていたことだろう。
約束の土地を目指してエジプトを出発した者は実際には約束の土地へ入ることはできなかった。しかし次の世代の者たちがそこへ入っていくことになった。個人としては願いが叶わなかった者も多かった訳だが、イスラエル民族としては最初の願いがもうじき果たされようとしている。
ヨルダン川を東から西に渡ってその約束の土地へともうすぐ入っていこうとしていた。その矢先に、ルベン族とガド族の人たちが、私達は多くの家畜を飼っていて、ヨルダン川の東側が家畜を飼うのに丁度良いので、ここに住むことにしたいと言い出したのだ。
出エジプトの総仕上げ、一致団結してヨルダン川を渡っていよいよ約束の土地へと入っていこうというときになってそんなことを言い出したわけだ。みんなで協力して最後の力を振り絞って出ていくぞ、というときになって、おれたちはここでいいから後はあんたたちでやってね、ということになりそうになった。
そうなると、何でお前達だけそんな勝手なことをするんだ、ということになって仲間割れしかねない。そうするとヨルダン川を渡って約束の地へ入っていくどころではなくなる。そこにはこれから戦わないといけない相手がいっぱいいるわけだ。
対話
そして何よりそれは神の約束に背を向けることであった。ヨルダン川の向こうにある約束の地へ民を導くという神の約束に従うことを途中で一方的に止めてしまうことになる。かつて約束の土地へ偵察隊を送ったとき、神の約束を信じられずに、約束の土地へ入っていくことを恐れて引き留めたことがあった。その時神は激しく憤り、その時成人していた者は約束の土地へ入れなくなってしまい、40年もの間荒れ野をさまようことになってしまった。ここにきてあなたたちは同じようにイスラエルの民を荒れ野をさまようようなことをしているのだ、モーセは激しい口調でそう言ったようだ。
ルベン族とガド族はそれを聞いてびっくりして、モーセのところへ行き、ここに子ども達のための町を作るけれども、イスラエルの先頭に立ってヨルダン川を渡り、他の部族の者たちが土地を手に入れるまではヨルダン川のこちら側にもどることはしません、そして私たちが向こう側の土地を要求することはしません、と言った。
モーセはこの案を了承し、諸部族の家長たちに対して、ガドとルベンの人々があなたたちとともに武装してヨルダン川を渡り、その土地を征服したならば、ヨルダン川の東にあるギレアドの土地は彼らの所有地とする。しかし彼らがあなたたちと行かないならば、彼らはカナンの土地であなたたちの間に土地を持たねばならない、と言った。一緒に行くならば家畜を飼うのに適したこの土地を与えるけれども、行かないならばこの土地は与えないというわけだ。
ガドとルベンの人々は一緒にヨルダン川を渡り戦うと約束する。
ルベンとガドがヨルダン川の東の土地を自分たちのものとすると聞いてモーセはかつて神が憤ったと同じように憤り、そしてとても心配したのではないかと思う。共同体の足並みが崩れてしまい、そこでみんなのやる気が萎えてしまうことはモーセはとても心配したことだろうと思う。
心を挫く
そしてモーセはどうしてルベンとガドに対して憤ったのか、結局はそれは他の民の心を挫いてしまうことになったからということのようだ。
自分たちは自分の土地を見つけた。自分たちはそれでいいのかもしれないが、それは彼らが自分勝手なことをしただけではなく、他の者たち周りの者たちの心を挫いてしまうということだからだろう。自分のことは考えているけれども、周りのことは考えていない、それだけではなく周りの者のやる気をも奪い取ってしまう、それに対してモーセは憤ったようだ。自分のことしか考えない、自分以外の者のこと、自分の隣人のことをまるで考えない、そのことにモーセは憤ったのだろう。
主の祈り
礼拝の中でいつも主の祈りを祈る。前半は神の御名があがめられるように、神の国がこの世で実現されるようにという祈りであり、後半は食べ物を与えて下さい、罪を赦して下さい、試みに会わせないで悪から救ってくださいという祈りである。
先日ある人の説教を読んでいたら、この主の祈りの後半の願いは、私たちになっていると書いていた。我らなのだ。我らの日用の糧を与え給え、我らの罪を赦したまえ、我らを試みに会わせず悪より救いいだしたまえ、みんな我ら、私たちなのだ。
主の祈りってのは自分だけのことだとずっと思ってきたけどそうじゃない。私たちの祈りなのだ。
イエスが語った一番の掟も、神を愛し隣人を愛しなさいということだった。神との関係を大事にし、隣人との関係を大事にするように、愛する関係を持つようにということだった。
誰も自分のことが一番に大切だろう。自分のことは大事にする。イエスは、自分を愛するように隣人を愛しなさいと言った。自分を大事にするように隣人を大事にしなさいというのだ。それこそが一番大事な掟、一番大事な戒めなのだ。
自分がどれほどすぐれた人間になれるか、自分がどれほど能力を持っている、そんなことにはとても関心がある。自分が立派になることには一所懸命だ。けれどもそれだけで終わっていては、そのことで自分以外の人のことが見えなくなってしまっては、あるいは自分以外の人が自分を測るはかりとしか見えていないとしたら、ただ比較し競争するだけの存在としか見ていないならば、たとえどれほど多くの才能を持っていても、誰にも負けない能力を持っていても何の意味もないのだろう。
パウロはTコリント13章で、たとえ異言を語っても、預言ができても、完全な信仰を持っていても、愛がなければ無に等しいと語る。どれほどすばらしいものを持っていても、愛がなければ、隣人をも大事にするという思いがなければ、隣人との愛の関係がなければ、何の意味もない、何の益もないというのだ。
約束
神の約束の地へ入っていくためには、約束の地を受け継ぐためには、そんな愛の関係を持ったイスラエルの民の一致が必要だったのだ。愛し合いいたわりあうという関係が何より大事だったのだ。どっちが偉いだとかどっちが立派だとか言って争っていては神の約束のものも受け取ることはできないのだ。
たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しいとパウロは語る。あるいはこれは何か皮肉の込められている言葉なのかもしれないと思う。しかし教会にとってこれはとても大事なことを語っているのだと思う。
教会員にとって、教会に来る人にとって目指すものはどういうことなのだろうか。いつも聖書を語り、死ぬことをも恐れない立派な信仰を持つことなのか、全く神を疑うことのない完全な信仰を持つことなのか。パウロの時代の教会には、俺の信仰はこんなにすごい、と自慢げに思っている人たちもいたのかもしれない。周りの人をみて、お前達の信仰なんてのは生ぬるい、まだまだ甘っちょろいなんて思っていたひともいたんじゃないかと思う。パウロはそんな人に向かって、たとえ完全な信仰を持っていても愛がなければ無に等しいというのだ。
隣人のことを気遣い、隣人の苦労を一緒に担っていく、そんな中で教会も一致が生まれ、神の約束のもの、神の恵みを受け取っていくことができるのだろう。お互いが愛し合いいたわり合い支え合うことで教会となっていく、神の民となっていくのだと思う。私もいっしょにそれをやっていこう、私も一緒に苦労しようというところで始めて教会は前進していくのだと思う。
イスラエルの民はそうやってなんとか一致を保ちつつ約束の地へと入っていく。神の導きに従っていったわけだが、その一歩一歩は民自身の歩みなのだ。何もしないで神がそこまで運んで行くのではない。一緒に苦労していく、支え合い心配しあいながらの民自身の少しずつの歩みが神の約束の地へと続いていくのだ。
私たちにとっても、愛し合ういたわり合い支え合う小さな歩みを続けていく、それこそが神の祝福の道なのだ。その歩みを続ける先に大きな喜びが待っているのだと思う。