前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「見えないもの」 2003年11月23日
聖書:民数記 22章22-35節
祈願
野球でもサッカーでも、プロのチームはリーグが始まるときに神社に行って優勝祈願をしたということがニュースになる。広島カープも毎年行っているみたいだが、あれは本当に優勝祈願なんだろうか。毎年同じ神社に行っているみたいだが、優勝を祈願しているのに優勝しないとしても、それでもまた来年同じ所に行くなんてことがあるのだろうか。だめでもだめでも毎年同じ所に優勝祈願をしにいくのだろうか。本当はあれは優勝祈願ではなんだろうか。祈願してそれが叶わなくても関係ないのか、何十回かに一度叶えばそれでいいのか、やっぱり優勝を祈願している訳ではないのか、なんて思ったりしている。本当のところはよくわからないけれど。
バラクとバラム
面白い話しである。イスラエルの民は約束の地に向かう途中、行く手を阻むアモリ人を破る。イスラエルの民の数の多さと力の強さを見たモアブの王バラクは恐れをなして、呪術師であるバラムを呼び寄せて、イスラエルを呪ってもらおうと画策する。
当時は職業的先見者とか宮廷呪術師とか呼ばれる人たちがいて放浪していたそうだ。王に雇われるとお告げを語り、その国を祝福し敵を呪うことで報酬を得ていた人たちがいたそうだ。雇われ呪術師はだいたいその国に都合のいいようなことを語ることが多かったみたいだけれども、王は呪術師に自分に都合のいいことを語らせることで、神の言葉を金銀で買い取れると考えていたそうだ。
バラク王は長老たちとお礼の品をバラムの下に送ってモアブまで来てくれるように頼む。ところがこの時は、神からバラムに対して「行ってはならない、イスラエルの民は祝福された民であるので呪ってはならない」と告げられたことから断られてしまう。
しかしバラク王はもう一度長老を遣わし、今度はバラクは神の許しが出て出発することになる。
ところが、バラムが出発すると神の怒りが燃え上がった、という。自分が許可しておいて怒ることはないという気もするが、それはさておいて、御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっていたというのだ。そしてその御使いを、バラムを乗せているろばには見えたがバラムには見えなかったというのだ。ろばが進まなくなってしまったのでバラムが杖でろばを打った。そこでろばとバラムが「何で3回も打つんじゃ」、「お前が勝手に止まるからじゃ」、「何を言うか、今までこんなことしたことがあるか」、「いや、ないわ」というような話しをした。
そうしたらやっとバラムにも御使いが見えてひれ伏した。御使いは「何で3回も打つんじゃ。ろばはわしを見たからよけたんじゃ。わしにぶつかったらお前を殺しとるわい」なんてことを言う。バラムは「あなたがいたなんて知らなかったもんじゃけえ、赦してつかあさい。行ってはまずいのなら引き返します」と言う。そしたら御使いが「いきんさい。その代わり、私が告げることだけを告げんさい」てなことを行ったので、バラムはそのままバラク王の所まで行ったというのだ。
一体御使いは何をしにきたのか。神は何を考えているのか。行くなと言ってみたり、行けと言ってみたり、そして出発したら通せんぼしてみたり、でもやっぱり行けと言ってみたり。しかしそれでもバラムは神の言葉に従って行動し、バラク王のところへ行ってからも神の告げる言葉をそのまま語りイスラエルを祝福した。そのことでイスラエルの民は守られることになった。
見えない
イスラエルの民の全く知らないところで今日の物語は進行する。イスラエルの知らない所で神は守っている。
私たちもそんな風に神に守られているのだろう。私たちは自分の願いを叶えてくれるように祈る。あれがこうなって欲しい、これがこうなってほしいと願う。その願いが叶ったり叶わなかったりするわけだが、実は神は私たちが願うよりも先に、私たちが願う前から私たちのことを守ってくれているのだと思う。私たちの知らないところで神が支えてくれている。私たちが気づくことはほんの少ししかないのかもしれない。そんな風に見えないところで神は私たちを支えてくれているのだろう。
子どもがあれを買ってくれこれを買ってくれとよく言うが、その時にそれを買わないと腹をたててしまう。親は何も買ってくれないというようなことを言う。毎日の食事や服やいろいろと生活に必要なものは誰が買っているのかと思うが、子どもにとっては目の前にあるお菓子のことしか頭にないようで、うちの親は何も買ってくれないというような文句を言う。
それと同じような文句を私たちも神に対して言っているのかもしれないと思うのだ。私たちの見えないところで、私たちの気づかないところで神は私たちを守り支えてくれているのだろう。私たちの生かし私たちの全てを支えてくれているのだろう。
土台の話しがあった。時々テレビでも欠陥住宅のことが出ている。土台がしっかりとしていないために家が傾いてしまうことがあるらしい。土台は家にとってはとても大事なものだ。そしてその土台は家が建つと見えなくなってしまう。一番大事なものが実は見えないところなのだ。
神の支えもそんな土台のように下から見えない所での支えなのかもしれない。私たちは天から、上からいろんなものが、欲しいものが降ってこないかと願う。神さまが良い物をどんどん降らせて欲しいと思う。私たちが欲しいものをどんどん降らせてくれたらいいのにと思う。でも神の支えとはそんなものではないのかもしれない。それもあるかもしれないが、それよりも下から私たちを守っている、そんな支えなのだと思う。ときどき必要なものをふらせるというような仕方ではなく、私たちの命もなにもかもすべてを支える、神の守りはそういうものだと思う。
願いごとがある時にはお祈りするけれど、神さまとは思うけれど、それ以外の時には関係がない、としたら神はただの優勝祈願をする相手でしかなくなる。そうすると私たちと神との関係はそれこそ年に一回だけということにもなりかねない。あるいはお菓子を買ってもらったときだけ親がいてよかったと思う子どものようなものだ。
私たちの神は生きることも死ぬこともすべて支えてくれている、そんな神だ。神は私たちの気づいているところでも、気づいていないところでも私たちをしっかりと支えてくれている。だから安心して生きなさいと神は言われているのだろう。
この教会堂を建てる時にも、コンクリートを地中に流し込んで柱を何本も作って、その上に基礎を作って、その上に鉄骨を組んで建てている。崖の上に住んでいるときは地震や雨の度にどうかなりはしないかと心配していたが、ここにいると欠陥住宅のテレビを見ても、ここなら少々何かあっても大丈夫と安心している。
そんな風にしっかりとした土台のように、神は私たちを下から支えてくれている。だからその上で、そのしっかりとした土台の上で安心して生きなさい、神はそんな風に言われている。