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礼拝メッセージより
説教題:「一歩前へ」 2003年11月16日
聖書:民数記 14章1-25節
偵察
13章からのところを見ると、モーセは神の命令に沿って神の約束の地カナンを調べるため、部族毎に一人ずつを選んで偵察隊を組織した。その土地の住民が強いか弱いか、人数が多いか少ないか、土地が良いか悪いか、街はどんな様子か、天幕を張っているか、それとも城壁があるか、肥えた土地か、木が茂っているかどうか、そんなことを調べさせ、その土地の果物を取って来させた。
偵察隊はブドウやざくろやいちじくを取ってきて、その土地は乳と蜜の流れる土地であることと、その土地の住民は強く、町は城壁に囲まれて大きく、いろんな民族が住んでいることを報告した。
しかし偵察隊の一人であるカレブはモーセに、「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます。」と進言した。しかし偵察隊の他の者たちは、「あの民に上っていくのは不可能だ。彼らは我々よりも強い。」と言った。そして、そこの住民はみんな巨人で、神の子が人間に産ませた子孫と言われるネフィリムがいた、我々はそれにくらべたらいなごのように小さい」という風に、イスラエルの民に悪い情報を流した
その悪い情報を聞いたイスラエルの民は夜通し泣き言を言ったというのだ。乳と蜜の流れるというそんな良い土地へ向かって行っているのに、そこは神が与えてくれる約束の土地だと思っていたのに、そこには強い民族がいる、自分たちではとても歯が立たない強い民族がいる、という話しを聞かされてしまったのだ。
やがては神の約束の地、乳と蜜の流れる土地へ行くのだという希望をもってイスラエルの民は旅を続けている。その希望があるから苦しい荒れ野の旅も堪え忍んでいるのだ。ところがその希望が消えようとしているのだ。
神は確かに約束したのかもしれない。しかし現実には自分たちが太刀打ちできない強い民族がそこにいることを知ってしまったのだ。大きな難関が目の前にあることを知らされた民は泣き言をいうしかなかったのだろう。その強い民族にやっつけられるためにここに来たのか、そいつらに殺されるためにわざわざエジプトからやって来たのか、そんなことならエジプトでそのまま死んだ方がましだった。そいつらに殺されるなら、この荒れ野で死んだ方がよほどましだ、なんでこんなことになってしまったのか、何でこんなことのために、こんな苦しい思いをしないといけないのだ。そんなことを考えていたようだ。
神が共に
その続きが今日の聖書の箇所。
ヨシュアとカレブは、偵察した土地はとてもすばらしい土地だった、我々が御心に適うなら、主が我々をあの土地へ導き入れ、あの乳と蜜の流れる土地を与えてくださるであろう、主が我々と共におられる、彼らを恐れてはならない、と言った。たとえカナンに済んでいる住民が強くても、神が私たちと共にいるのだから、それが神の御心ならば、神がそうしようとされているのであれば、神がそこまで導いてくれるはずだ、神がその土地を私たちに与えて下さるはずだというわけだ。
しかしそれを聞いたイスラエルの民は、ヨシュアとカレブを石で打ち殺せと言ったという。あんな強い民に勝てるわけがない、いくら神が約束したと言っても、神がそこへ導いてくれるなんてことを言っても、そんなこと信じられないということだったのだろうか。あるいは強い民に向かっていくことがどうしても怖くて仕方なかったのだろうか。
神を信じているといいながら、自分たちは神に選ばれた特別の民だと言いながら、しかし神の言葉をなかなか信じられない、神の導きを信じられない、それがイスラエルの姿であるようだ。
神はそんな民は滅ぼすと言うが、モーセがなだめてどうにか彼らは滅ぼされることは免れる。しかし最初の世代の者は約束の土地へと入っていくことはできない、そこへ入っていくのは新しい世代の者だということになってしまう。例外はヨシュアとカレブだけである。そこへ行こうと言ったヨシュアとカレブは約束の土地へ入っていくことができるが、そこへは行けないと言った人たちは本当に行くことができなくなってしまったのだ。
約束
偵察隊の中でヨシュアとカレブだけが、神の導きを信じて、約束との土地へ行こうと言った。そこの民像をやっつけることが出来ると言った。けれども彼らが勝てるという保障は、ただ神が導いてくれるということだけだった。目に見えるところでは彼らが勝つだろうという保障はない。普通に考えれば相手の方が余程強かったのだろう。他の偵察隊の者が後込みするほどに強かったのだろう。しかしヨシュアとカレブはそれでもそこへ行こうと言った。
神を信じているからそう言えたのだろうか。確かにそうなのだろうけれども、そうすると信じるということは、そんな大変な時にも、まるで目に見える見通しが立たないような時にも、神の導きを信じて進んでいくということになる。恐れおののくような現実の中でも、その現実を前にしてうずくまるのではなく、あきらめるのでもなく、神の声を聞いて神に従っていく、神の導きに従っていく、それが神を信じるということなのだろう。
壁
私たちの現実はどんなだろうか。自分の無力さと無能さを嘆くことが多いのが現実ではないか。私たちの教会も、人数も少なく年寄りが多くお金もない、何も能力がないというのが目に見える現実の姿だ。だからどうせ何も出来ない、どうにもならないのか。こんな私はどうせ何もできないと最初からあきらめるのか。
荒れ野
約束の地、乳と蜜の流れる地へと向かっていくイスラエルの民、しかしその約束の地へ入っていく前に、神は民を荒れ野へと導いていった。まだ約束の土地へ入っていく時ではなかったのだろうか。その時期がくるまで待たせるためか、それともそこで民を鍛えるためか。
約束の土地へ行けると信じたヨシュアとカレブは約束の土地へ入っていくことができ、行けないと思った他の者たちは入っていくことができなくなってしまった。信じなかったためにそれができなくなった。それは神の裁きだったのだろうか。しかしそれでも神はモーセのとりなしもあり、イスラエルの民を慈しむ。神を信じない、神の力を、神の導きを、神の約束を信じない、信じられない民を、それでも神は慈しむのだ。そして彼らを荒れ野へと導く。荒れ野は神の力を信じるようになるための、神の導きを信じるようにための場所なのかもしれない。
苦しみ
大学に入学してみると同じ学科にもいろんな人間がいた。高校からそのまま現役で入った者や、一年浪人したもの、二年浪人した者もいた。さすがに高校で登校拒否した者はいなかったけれど。そしてしばらくして何となく気づいたことがあった。それは現役でそのまま入った者よりも、浪人してから入った者の方がなんとなく優しさがあるということだった。彼らの方が人間的だったような気がした。
失敗
失敗しては落ち込み反省し、うまくいけば有頂天になりまた失敗する、そんな繰り返しの私たちの人生だ。けれどもその失敗のたびに人は優しくなって行けるのだと思う。厳しい現実を前にして、神の言葉など信じられないと思うような出来事を経験しながら、後になって神の導きが分かることがある。神なんか信じられないというようなことの中に、神の守りがあったことを知ることがある。そんな苦しいことを経験する中で、失敗を経験する中で、私たちも少しずつ本当に神を信じることを教えられていくのだろう。そして少しずつ神を信じる者へと変えられていくのだろう。