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礼拝メッセージより
説教題:「出発進行」 2003年11月2日
聖書:民数記 1章1-19節
お引っ越し
引っ越しは大変なことだ。荷物もまとめて、引っ越し先の手はずも整えて、いろんな手続きもして、いろんな気も使い、体力も使う。今でも大事業だ。
奴隷として働く苦しい生活からなんとか解放してくれ、というイスラエルの願いがやっと叶って、彼らはエジプトを出発する。これから約束の地カナンへと向かうことになる。カナン地方が神の約束された土地であった。しかし約束の地とは言ってもそれは神が約束した土地というだけのことでしかない。エジプトの王が、あそこがあなたたちの約束の土地だから戻りなさいと言ったわけでもなく、カナン地方に住んでいる人たちがその土地をイスラエルのために、ここがあなたたちの約束の地だから来なさい、と言って待ってくれているわけでもない。
エジプトの王は、奴隷を逃がしたくないという思いをずっと持っていたようであるし、カナンの人たちも自分の住んでいる土地に勝手にやって来るんじゃないという気持ちを当然持っていただろう。
荷物もきちんと整理して片づけて、行く先の準備も整えて引っ越しますよ、というようなことではまるでなかった。見た目には準備は何もできてないといった方がいいような状況だ。カナンにはいろんな民族が現に住んでいるわけだ。これから引っ越そうとする家にはまだ他の人が住んでいるようなものだ。何月何日には空けますからという約束も何もない。本当にそこに行けるのか、そこに住めるのか、確かに神の約束はある。しかし実際神の約束しかない、そんな状況の中で、イスラエルの人たちはカナンへ向けて出発した。いわば大引っ越し作戦が開始された。
人口調査
エジプトを出た翌年に人口踏査をしたことが書かれている。男子だけを数え、兵役につくことのできる20才以上のものを登録した。そうすると登録された者は、603550人だったそうだ。兵隊になれる20才以上の男子だけで60万人いたというのだ。そうするとイスラエルの人たち全体となると100万人を超えるような人数で移動していたということになる。それだけの大人数で移動するとなると当然その数を把握しておく必要もあるだろう。そこで、12の部族ごとに人数を数えたということが書かれている。
ただレビ人だけは人口調査をせず、登録することもなかった。レビ人は幕屋に関わる任務を与えられることになって、それに専念することとなった。幕屋を組み立てたり畳んだり、幕屋の警護をしたりするのがレビ人の務めとなった。つまり神と関わること、信仰的なことのために一つの部族全部がその務めにつかせたようだ。
そしてイスラエルの民はその幕屋を中心として部族毎に移動して、どこかにとどまるときも幕屋を真ん中にして、そのまわりにそれぞれの部族がそれぞれ家系の印を描いた旗を掲げて宿営した。
本拠地
行く先の状況がどんなものかもはっきりしない、そこにいつ行けるのかも分からない、そんな不安定な旅をイスラエルの民は続けることとなった。この旅が引っ越しの間だけの仮の状況で、向こうに着くまでの臨時の生活というならば、少々の不便も我慢して兎に角先を急ごうという気にもなるだろうが、それが何年も続くようになるとそれは一時的な旅ではなく、それが日常になる。旅をすることが日常になると、当然そこでどう生きていくかということを真剣に考えないといけなくなる。
ふと三宅島のことを思い出した。火山から有毒ガスが吹き出してしまって、島全体の人が避難してからもう2年以上になる。1週間とか1ヶ月という位の避難であれば、別に何するでもなく帰る日を待っていればいいのだろうが、何年もとなるとただ待っているわけにはいかなくなる。避難した先でどう生きるかということを考えていかないといけなくなるだろう。いつかは帰るつもりではあるだろうが、今の生活もしっかりと整えていかないといけなくなるだろう。
エジプトからカナンへは、まっすぐ行けば10数日で着くくらいの距離だそうだ。10数日の旅であれば殊更隊列を整えて行くほどのことも、そこで人数を確認する必要もなかったかもしれない。カナンへ着いてから整えていけばいいようなものだ。
けれども現実にはそう簡単にカナンへ向うわけにはいかず、イスラエルの民にとっても、エジプトを出発してから約束の地へ向かう間の放浪の旅が彼らの日常となっていった。本拠地へ着いてから本格的に体制を整えていくということが出来たらよかったのかもしれないが、そんなことは出来なくなった。今ここで、ここからイスラエルの民はその体制を整えていくこととなった。その初めがこの人口調査だったのだろう。
そこで神はそれぞれの部族ごとに宿営する場所を決め、レビ人には幕屋の世話をするようにと命じた。そして幕屋を中心としてそこのまとまるようにと言われた。
本拠地へ着いていない、いつ着くかもわからないという不安定な時期だ。しかし、部族ごとに数えるという人口調査はただエジプトの奴隷であった者たちが、イスラエルのそれぞれの部族であるということ、神に導かれて生きてきた民なのだということを、ここでもう一度確認する作業でもあったのだろう。そして自分がそのイスラエルのひとつの部族の人間であることと同人、部族が集まってイスラエルとなっていることをも確認する作業でもあっただろう。
大変な旅を続けるからこそしっかりと体制を整えて、お互いを認識しあって、助け合っていくようにということが神の命令のそもそもの意図だったのかもしれない。
カナンという約束の地、本拠地にはまだまだ着かない。けれども本当は、このイスラエルの部族連合という集まりそのものが、イスラエルの民にとっては本拠地なのだと思う。カナンという、場所としての本拠地へはまだまだ着かないわけだが、部族連合という本拠地はこの時もうすでにここに誕生したのだと思う。幕屋を中心として、つまり神を中心として、その周りに民が集められている、それこそがイスラエルであり、彼らの本拠地なのだと思う。カナンで住むから神の民となるのではなく、神を中心に集められていることこそが神の民の証しなのだろう。
ただ将来を夢見るだけで、いつになったらカナンへ着くのかと言って嘆くのではなく、毎日を大事に生きるように、共同体の一員とされていることを感謝し、集められていることを大事にして、お互いを大切にして生きていくように、というのが神の意志なのだろう。
教会とは本来建物のことではなく、人の集まりのことである。神に呼び出された人の集まりが教会である。そこで神は私たちをも整えて、それぞれの務めを与えてくれるのだろう。そんな神を中心とする集まりこそが、私たちにとっても本拠地なのだ。神を中心として集められ、それぞれに務めを与えられ、お互いを尊重し助け合う、それが私たちの教会であり、それが私たちの本拠地でもある。
教会の本来あるべき姿を目指しつつ、しかしそうなっていない、いつになったらなるのかと言って嘆くよりも、ひとりひとりが教会に集められ神の民とされていることを認識し、お互いを尊重し助け合って生きなさいと神は言われているのではないか。神は、あなたもあなたも数えている、あなたもあなたも大事なのだと言われているのではないか。私たちはそのことを感謝することから始めようではないか。