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礼拝メッセージより
説教題:「神の民となる」 2003年10月26日
聖書:レビ記 26章3-13節
二者択一?
レビ記の最後にきて、祝福と呪いが書かれている。神の掟に従って歩み、律法を忠実に守るならば、神は時季に応じて雨を降らせ、作物を実らせ、穀物の収穫も続き、国の中で平穏に暮らすことができる、なんてことが言われる。
反対に、戒めを守らなければ、民の上に恐怖が臨み、病気になり、収穫もなく、敵に敗れてしまうと言う。それでもまだ神の言葉を聞かなければ、民の罪に七倍の罰を加えて懲らしめる、それでもまだ聞かないなら、また七倍の災いを加え、戦争を起こし疫病を起こし、満腹することもないと言う。それでもまだ反抗するなら、激しい怒りをもっち、七倍の懲らしめを加える、民は自分の子どもの肉を食べるようになり、聖所を荒らし、灘目の香りも受け入れない、民を異国に散らし、国は荒れ果て、町々は廃墟と化すという。
神の言うことを聞かなければとんでもないことになるぞ、なんて言われると、なんだかすごい脅しのようでもある。旧約の神は恐ろしく厳しい神であると言われることがあるが、まさにそんな印象を受けるようなところだ。神は自分に従う者だけは好きではあるが、従わない者が気に入らなくて気にくわなくて、罰したくて仕方ないからこんなことを言っているのだろうか。そして民は罰せられないようにするために、いつも神のご機嫌を伺って生きていなければいけないのか。レビ記はそのようなことを教えているのだろうか。神の機嫌を損ねたら大変な災難が起こるから、そうならないように神の言葉を聞いていなさい、というようなことを言っているのだろうか。
家を建てるときによく地鎮祭というのをする。それはその土地の霊を鎮めるためのものだそうだ。その土地の神々や、土地のゆかりの霊が悪いことをしないように鎮めるためのものだそうだ。いろんな霊がいて、何か悪いことをするかもしれないという恐れがあるからその悪さをしないようにと挨拶して鎮めておくための儀式なのだそうだ。実際には家を建てる人の多くは地鎮祭がどういう意味なのかも知らない人も多いみたいで、建築会社の方から頼まれたからするという人も結構いるみたいで、意味はよく分からないけれどもあとで何かあったときに、地鎮祭をしなかったからだということになるのがいやだからしておくという人もいた。決められたことをしておかないと悪いことがあるかもしれないとか、なんだか分からないけれど自分たちに悪さをするかもしれない存在がいろいろいて、鎮めておかないと悪いことがあるかもしれないという恐れがいっぱいあるように思う。
聖書の神はそんな風に何か言うことを聞いておかないと悪さをしでかすかもしれない、そんな神なのだろうか。ちゃんと聞いておかないと悪いことがあるぞと脅かしているのだろうか。
ただ中に
神の祝福の中で11、12節にこんなことが言われている。
「26:11 わたしはあなたたちのただ中にわたしの住まいを置き、あなたたちを退けることはない。26:12 わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。」
神の掟を守る時、神が民の中に住み、民の内を巡り歩くと言う。そして民の神となり、民は神の民となるという。神の戒めを守ると言うことは、神と共に生きるということなのだ。戒めを守るのは、災いが起きないため、神が災いを起こさないように鎮めておくためではなく、神の民となり神と共に生きるためなのだ。この祝福と呪いとは、そして神の民として、私と共に生きなさいという神の誘いなのだろう。
悔い改め
14節以下の呪いの所では、神の戒めを守らなかった時のことが書かれている。こんな災いが起こるということが延々と書かれているが、その中に18節に、「26:18 このような目に遭ってもまだ、わたしの言葉を聞かないならば、あなたたちの罪に七倍の罰を加えて懲らしめる。」とあり、21節には「26:21 それでも、まだわたしに反抗し、わたしの言葉を聞こうとしないならば、あなたたちの罪に七倍の災いを加える。」、23、24節には「26:23 それでも、まだわたしの懲らしめが分からず、反抗するならば、26:24 わたしもまた、あなたたちに立ち向かい、あなたたちの罪に七倍の災いをくだす。」、27、28節には「26:27 それでも、まだわたしの言葉を聞かず、反抗するならば、26:28 わたしは激しい怒りをもって立ち向かい、あなたたちの罪に七倍の懲らしめを加える。」という風に、それでもまだ聞かないならということが繰り返し語られる。これは神の言葉を聞かない民に向かって、それでもあきらめず何度も語りかける、これでもだめか、これでもまだだめか、という何とかして自分の民として自分と共に生きるようになって欲しいという神の期待の現れなのだろう。
そしてさらに、40節以下のところでは、「26:40 しかし、もし彼らが自分と自分の先祖の罪、すなわち、わたしを欺いて、反抗した罪を告白するならば、26:41 たとえわたしが彼らに立ち向かい、敵の国に連れ去っても、もし、彼らのかたくなな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば、26:42 そのとき、わたしはヤコブとのわたしの契約、イサクとのわたしの契約、更にはアブラハムとのわたしの契約を思い起こし、かの土地を思い起こす。」という。
何度も何度も神に背いたとしても、そこで罪を自覚し告白するならば、またかつてのアブラハム、イサク、ヤコブと交わした契約を思い起こし、かの土地を思い起こすと言うのだ。罪を認め悔い改めれば、そこからまた、まるで何事もなかったかのように最初の契約を思い起こすというのだ。もう一度そこからやり直せるというのだ。
そこまでして、神は自分の民と生きようとしている、民が自分と共に生きることを望んでいるのだ。だから神の言葉を聞かない時にはいろんな災いがあることが言われているが、それは神が民が見張っていて、いつ自分から背くかと、いつ反抗するか、そうしてら罰を与えてやるという風に手ぐすね引いて待っていると言うことではない。自分に従わない者を切り捨ててしまおうと思っているということではないのだ。そうではなく、背いても背いても、何とかして帰ってきて欲しい、そのために罰を与えているかのようだ。神に背いていることを知らせるために、そしてそれが民の生きるべき道ではないことを知らせるため、本来の道に戻させるため、そのための呪いなのだろう。
だから律法とは、これを守っておけば合格とか、出来てないから不合格というような線引きをするためのものではなく、神と共に生きるための掟、神のもとへ帰るための道しるべ、私たちの進むべき道しるべなのだと思う。そしてそれは神からの誘いであり、神からの招きでもあるのだろう。
放蕩息子
イエスが、放蕩息子のたとえを話されたことがあった。その中で自分の遺産を使い果たしてしまった息子に対しても、ひたすら帰りを待つ父親、そして帰ってきた息子をただ抱きしめる父親のことを話された。この父親は私たちを思う神の姿そのものなのだろう。そしてそれは、このレビ記が語る神の思いそのものだ。
律法とは、父の家を離れて苦しい思いをしている息子に対する父親の思いのようなものだ。お前のいるところはここなのだということを教えるもの、お前の帰る道はこっちなのだと知らせるもの、それが律法なのだろう。どう生きることが私たちにとってふさわしいのか、どう生きることが私たちにとって幸せなのか、喜びなのか、そんなことを教えているもの、それが律法なのだろう。
だから律法は罰を与えるためのものではなく、ただ私たちを縛り付け不自由にさせるものでもなく、神からの招きなのだ。聖書はそんな神の招きの書かれているものだ。
どうも人間は何にしても形式主義になってしまう面があるみたいで、意味もよく分からないけれどとにかく決められた通りしておけばいいというような面がある。それがだんだんと意味も分からずそうしないといけないのだという気持ちになってしまうようだ。そうするとだんだんとそれは人を縛り付けるものとなってしまう。地鎮祭だって、意味もわからないけれど、決まった形通りにしておかないとおっかないということでするという人が多いようだ。礼拝だって、そこでみんなで一緒に神の言葉を聞くという喜びの時であるはずのものが、守らないといけない休んではいけないなんてことになっているとしたら、それは結局は私たちを縛り付けるものでしかないだろう。そういうのを律法主義というのだと思う。
イエスは、私は律法を成就するため、完成するためにきたと語った。つまりそれは神の招きを神の救いを完成するためにきたということだろう。律法を含む聖書は、そんな神の招きが詰まっているものなのだ。繰り返し罪を犯し続ける民に向かって、私のところへ帰って来なさい、ここへ帰ってきなさいと繰り返し語りかける神の言葉が詰まっている。礼拝はその神の言葉をみんなで一緒に聞く、そんな喜びの場所、恵みの場所なのだ。