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礼拝メッセージより
説教題:「安息と解放」 2003年10月19日
聖書:レビ記 25章1-12節
安息の年
創世記によれば、神は天地を創造したときに、7日目に休まれた。そしてここでは、土地について、7年目に休ませないといけないという。
この神の命令が告げられた場所はシナイ山である。つまりイスラエルの民がエジプトを出発して、まだ約束の土地へ到着するずっと前だった。まだ与えられてもいない土地についてのことを神はここで語る。なんだか、捕らぬ狸の皮算用って気もするが、これを聞かされたイスラエルの民はどんなに思ったのだろうか。捕らぬ狸と思ったのだろうか、それとも約束の土地へ行くという気持ちが強まったのだろうか。
とにかく、その土地では6年間は種を蒔いて収穫してもよいが、7年目は休まないといけないと言われている。そして地の産物が食べ物となると言われる。とすると7年目は農作業をしないわけで、その分仕事がなくなるということなんだろうか。とすると奴隷や雇い人にとっては休みになるということなのか。それともやっぱり違う仕事が待っているんだろうか。
ヨベルの年
そしてさらに、その7年ごとの安息の年の7回目ということらしいが、50年目はヨベルの年となるなんてことが言われている。ヨベルというのは雄羊の角でつくられたラッパという意味らしい。国中でその角笛を吹き鳴らしてその年が来たことを宣言するらしい。
その年はやっぱり種まきも収穫もしないのはもちろん、所有地の返却を受けるというのだ。土地を売っても元の所有者にその土地を買い戻す権利があるらしく、しかもお金がなくて買い戻すことができなくてもヨベルの年になれば元の所有者に返さないといけないなんていうことなのだ。人も同じように買ったとしてもヨベルの年になれば返すというわけだ。そして土地も人も、ヨベルの年まで何年だからということで値段が決まってくるというのだ。ヨベルの年が近ければ、すぐに返さないといけないのでその分安くなるということらしい。
売るとか買うとか言われているが、結局は所有権は元々の所有者にあって、ヨベルの年まで何年あるからその分のお金を払って借りているようなことのようだ。
とても面白いシステムだ。レビ記には家はどうなるかとかレビ人の場合は例外があるとか細かなことも書かれている。
どうしてそんなことになっているかということだが、23節には、「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在する者にすぎない」からということのようだ。結局は土地は神のものであって、お金を払って買ったり売ったりするけれども、それで完全に自分の物になるというようなものではない。飽くまでも神のものであって、そこにおらせてもらっているだけ、一定期間そこにおらせてもらう権利を買っているだけというような考えらしい。
ヨベルの年にはそのもともとの権利者の元へと返す、要するに神が与えている者のもとへ返し、神の決めたとおりに戻すことのようだ。
何で土地を売ることになるのか、何で人を売るようなことになるのか、それはそれぞれにいろんな事情があるのだろうけれども、どうしてそうなったかは問題にしないようだ。どうしてそうなったにせよ、ヨベルの年にはみんな元へ戻してもう一度やり直すのだ、と神が宣言しているようなものらしい。
帳消し
借金が全部帳消しになるとしたらどう思うか。お金を借りてる私には丁度良かったと思うか、それともお金を貸しているのにそれがなくなったら困ると思う人とがいるに違いない。借りてる側と貸してる側ではその気持ちは正反対になりそうだ。貸している側にとっては、それを帳消しにされてはたまったものではない。突然貸し借りを帳消しにするということになったらそれは国中大変なことになりそうだが、この年というのが分かっていれば、みんなそのつもりで貸したり借りたりするのだろう。
執着
けれどもやっぱりなんだか帳消しにするなんて変だなという気がする。でもそれはお金に執着しているから帳消しになることに納得しないのかもしれない。帳消しにすることで、お金に執着することから解放されるのかもしれない。自分のお金は自分のもので、自分で守らないといけないと思っているから必死でしがみつく。けれども、どんなにお金ためてもある時帳消しになると分かっていたら、そんなにしがみつくことはないような気がする。いくらでも溜められるだけ溜めておこうとするようなところが人間にはあるみたいだが、いつか帳消しになると分かっていたら、遮二無二溜め込むようなことはしないような気がする。生きていく分さえあればいいということになる。そしたらがめつくお金お金という思いも減っていくような気がする。
お金は自分のもの、自分が稼いだもの、自分の力で手に入れたものと思っている。そしていくらあっても困らない、あればあるほどいいと思っている。お金がなければ何にもできない、お金が何よりも大事、そんな風に思うことが多いのではないか。そしてそのお金は自分のために使うものだと思っている。
でも案外私たちはものすごくお金に執着していて、また反対にお金に縛られて生きているのかもしれないと思うことがある。とにかく何でもお金に換算して、お金を中心にものを考えるようなところがある。何をするにしても、お金がかかるからやめておこうなんてことを考える。もちろん無駄遣いすることがいいことだとは思わないが、大切なことのためには少々お金がかかろうがやらねばならないこともある。大切な人に会うためには少々遠くても、お金がかかっても会いに行く。けれども、お金こそが大事になると大切な人に会うことも、やめてしまうことになる。自分のお金が減っても大事な人と会うことと、お金を減らさないために会いに行かないことと、その大事さによって私たちは判断するわけだが、だんだんとお金の方に比重がかかっているのかもしれないと思う。そんな風に自分のお金を守ることが第一になって、本当の大切なことが少しずつ後回しになっていくことが多いような気がする。
個人がお金を持つこと、それぞれにお金に執着することで、この世の中に一緒に生きていくこと、みんなで助け合って一緒に生きていくことが出来にくくなっているのかもしれないと思う。自分の持っているお金が減ることをとても嫌っている。誰かのために、誰かと生きるためにということで自分のお金を出すということがなかなかできにくい。
そんな風にお金に執着することのないようにということで神はヨベルの年を守るようにと言われているのではないか。自分がお金を貯めることに汲々となることで、自分のお金を減らさないことを第一とすることで、周りの人たちとのつながりとか、一緒に生きていくことというようなことが、だんだんと大切なこととは思わなくなっていくことがないように、そんな風にお金に縛られることがないように、お金に支配されることがないようにということでヨベルの年があるのかなと思う。
神のもの
聖書は、すべては神のものだ、と言う。土地もお金も命も実は神のものだという。種まきや収穫を7年目には休むようにと言うとき、神はその分の収穫は前の年に保障するという。だから休めという。それを与えるのは私なのだ、だから私に従いなさい、お金に土地に従うのではなく私に従いなさいと言われているのだろう。
お金を持つことで安心するのか、それとも神の約束を聞いて安心するのか、お金を信じるのか、神を信じるのか、どっちなのだと問われているのかもしれない。自分が一杯持つことで安心するのか、それとも神を信じることで安心するのか、どっちなのだと問われているようだ。