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礼拝メッセージより
説教題:「命を献げる」 2003年10月12日
聖書:レビ記 1章1-17節
献げ物
それにしても、献げ物をする祭壇の周りでは、血の臭いと肉を焼く臭いとが充満していたようだ。それに、動物を屠る時の声と人間たちの喧噪と、薪の燃える音と肉の焼ける音で結構うるさかったような気がする。
神への献げ物は、神の命令を聞くこと、神との関係を守ること。
目には目
目には目を、歯には歯をというのは一般社会でも結構有名な言葉になっている。何かやられたら同じことで復讐するのだという意味になっているみたいだが。聖書では復讐しろではなく、同じもので償うようにと言われている。
誰かを傷つけたり、損害を負わせたときにはその同じもので償う、金持ちも貧乏も同じように償うというのが旧約聖書の律法の命じるところである。
命を献げる
ならば罪を犯したとき、神の前で罪を犯した時はどうするのか。命に関わる罪を犯した時には、その命を償うためには命が必要となる。目には目、歯には歯を償うように、命には命を償うことになる。そしてその命の身代わりが動物の命だった。動物に手を置くことは、自分の身代わりとなってもらうということを現しているらしい。
当時イスラエルの周りの国では、神の怒りを鎮めるために人間を犠牲にするようなことがあったらしい。日本でも人身御供とか人柱なんてことばがある。実際に誰かの命を献げて、神の怒りを鎮めるというようなことがあったようだ。しかし聖書の律法では人の命を献げるようにとは言われない。飽くまでも人の命を守ろうとしているようだ。罪を犯した者のことも、動物の命を献げることで身代わりとするようにと言われている。
罪
しかし同時に、人間には命を献げなければならないほどの罪が人間にはあるということだ。本来人間自身、その人の命を献げなければならないような罪を持っているということだ。罪を贖うために動物を献げるということは、本当は自分の命を献げなければならない罪があるということだ。
赦し
しかしそうやって神は赦しを用意してくれている。
赦しがある、赦しの道が備えられていることはとてもうれしいことだ。
赦してもらうまで、いつまでもそのことを引きずって生きていくという話しを聞いたことがある。
先日も友人を裏切って何十年もそのことを引きずっていたなんていうテレビドラマがあった。その相手に赦してもらないことには解決できない痛みをずっと持ち続けてきたような話しだった。
あるいは、戦争で敵を殺した人が、何十年もそのことを重荷に思い、若い牧師に向かって、本当にそのことも赦されるのだろうかと聞いてきたという話しを聞いたことがある。赦しを乞うにももう相手はいない、けれども赦されるまでは、赦すという確かな言葉を聞くまでは、その重荷をずっと降ろせない、そんなこともある。神の赦しの言葉を聞くまでは、安心することができない、そんな重荷を、罪を私たちはきっと誰もが持っているのだろう。誰にも言えないような過去の罪や、言葉にも出来ないような罪、いろんな罪を、そしてその罪があるための重荷をそれぞれに抱えつつ私たちは生きている。生きていく上では、そんな罪と無縁でいることもできず、誰もが赦しを必要としているのだろう。
赦しがそこに備えられていなければ、赦しの方法が示されていなければ、私たちはその重荷から逃れられない。赦されないではどうにもできないような恐怖や不安を私たちは抱えて生きている。そこに赦しの道が備えられていることはどんなにありがたいことだろうか。
イエス・キリスト
私たちは今はこのような献げ物はしない。イエス・キリストが私たちの罪の身代わりとなって命をささげてくれたからだ。
ヘブライ人への手紙
9:25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。 9:26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。 9:27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。
10:10 この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。 10:11 すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます。 10:12 しかしキリストは、罪のために唯一のいけにえを献げて、永遠に神の右の座に着き、 10:13 その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです。 10:14 なぜなら、キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。
私たちにとっては、もう動物の血を流すような献げ物は必要ではない。キリストが私たちのための献げ物となってくれて、私たちのあらゆる罪を贖ってくれたのだ。
もちろん私たちに罪がなくなったわけではない。清い人間になったわけではない。しかしあらゆる罪は赦されている、イエス・キリストの十字架の死によって、罪の赦しは完成したのだ。
そして問題はその後私たちがどのように生きるかだ。罪は全部赦されているから罪を犯すことなど気にせず犯し続けるのか。それとも、赦されていることを感謝して生きていくのか。
献げ物
献げ物は神に罪を赦してもらうため、そして神との正しい関係を持ち続けるためのものでもある。神との関係なしに生きていくことなどできない、考えられないことなのだ。だからこそ、傷のないいいものを献げていた。貧しい人にとってはそれは大変なことでもあったのだろう。だから献げ物をすることは、自分の生活、自分そのものを神に献げるということも意味していたのだろう。
決められた分を献げて、自分は残りで生きていくというのではなく、神との関係の中で生き、生かされている、だから自分自身を献げる、自分の大事なもの、最高のものを献げていたのだろう。
そうやって神との関係の中で生きていく、赦されなければならない罪を持った人として、そして赦されたことを感謝して生きていくように、それがまた献げ物をする意味でもあるのだろう。
献金
献金は、その神への感謝の気持ちを表したものだ。そして献金はただ感謝だけではなく、それよりも自分をささげること、自分の命を献げること、自分のすべてを献げることでもある。
神が私たちを呼んでくださり、招いてくださっている、それに応えて神との関係の中に生きる、神の民として、神の民の一員として生きる、それの形となったのが献金だ。だから献金は、余ったお金を献げることではなく、自分自身を献げることなのだ。神と共に生きるということの表れなのだ。
明日で献堂一周年となる。みんなで献金してこの新会堂が建っている。額の多い少ないは確かにあるし、まだ借金も残ってはいる。けれどもこうやって確かに建っているのだ。有り余ったお金を献金したという人はそんなにいないのではないかな。
聞いた話では、韓国に行くと田舎にいっても立派な教会堂が建っているのだそうだ。自分たちの家よりも立派な教会堂が建っているそうだ。そしてそれは、教会が自分たちの中心だから、まずは立派な教会堂を建てるという意識があるからだと聞いた。生きる上での中心は教会なのだそうだ。神と生きることがまず中心にあって、その上で自分たちのそれぞれの生活があるということなのだろう。
イエス・キリストは「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」なんて言っている。
私たちは神に招かれてこの教会に来ている。そして神と共に生きるようにと招かれている。それに応えて献金し、そしてこの教会堂も建っている。
神は尚も私たちを招いている、私のところに来なさい、私と共に生きなさいと言われているのではないか。時々来るのではなく、日曜日だけ来るのではなく、あなたのすべてをもって私のところへ来なさい、そう招かれているのではないか。