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礼拝メッセージより
説教題:「聖なる者となれ」 2003年10月5日
聖書:レビ記 19章1-18節
律法
新約聖書には悪名高き律法学者という人たちが登場する。彼らはイエスに対していろいろといちゃもんをつけていたらしいことが書かれている。
実際イエスは律法に縛られないで生きていたようであるし、律法学者たちのことを批判するような所もあり、対立していたゆうでもある。
では、イエスは律法を完全否定して、律法からの脱却を目指していたのではないかと思いそうになるが、案外そうでもない。
マタイによる福音書では、5:17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。 5:18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。 5:19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。 5:20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」なんてことを言っている。
旧約の神は厳しい神で、新約は愛の神なんて言い方をすることもあるが、そうすると旧約の時代神は口うるさい神で、新約の時代になって急に優しい神に変わってしまったのか、あるいは旧約と新約の神はまったく別物なのかということになる。そして旧約聖書はただ昔の記録が書かれているだけの書物で、今の時代には役に立たないものということになってしまう。ところがイエスは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」という。旧約聖書のことを、本来は律法、預言者、諸書というらしい。つまりイエスが言う律法や預言者を廃止するために来たのではない、というのは旧約聖書を廃止するために来たのではないと言っているわけだ。廃止するのではなく、完成するためにきたという。
つまりイエスは、律法学者とは対決したけれども、律法と対決したわけではない、反対に律法を完成するために来た、律法の神髄を知らせるために来たということなんだろう。だから旧約聖書はただ昔の記録ではなく、今にも通じる神の意志が書かれているものなのだ。
聖なる者
神はイスラエルの人々に対して聖なる者になりなさい、という。聖なる者というとなんとなく清い人間、汚れも何もかも洗い落とした人のようなイメージがあるのではないか。一般社会では教会と言うところは清いところで、清い人間が行くところというイメージがあるらしい。それはそれで仕方ないところもあるが、教会に来る人も同じように教会に来る人間は清くなければならないと思っているところがあるように思う。クリスチャンの中にも、自分が教会に行っているということを言うのを躊躇するところがあるということをよく聞く。いろんな理由があるみたいだが、その中に教会に行っている割には清くないじゃないかというような見られ方をするのを恐れているというようなことがあるみたいだ。私は清い人間だから、正しい人間だからと教会に行くべきだと思って教会に来た人いるでしょうか。でも人にクリスチャンだと言わないことはまあ別にそんなに大した問題ではないと思うけれども、それよりも自分が何か問題を起こしたり、調子が悪くなったりする、落ち込んだり悲しくなったり苦しくなったりする、そうするとそんな時には教会には行けないということがよくあるみたいなのだ。自分の調子が良くなってたら、あるいは社会的ないろんな負い目を精算し問題を解決したら、周りから悪者とか落伍者とか挫折者とかいうような見られ方をされないですむようになったら、そしたら教会に礼拝に行きましょう、そうでない時には教会には行けないというようなことがよくあると聞く。一体どうしてそんなことになってしまうのだろう。教会は成功者の集まりなのか。社会で成功して、認められた者が来るところなのだろうか。そんなことはないとみんな思っているだろうと思う。ではどうしてそんな人しか来れないような教会になってしまったのか。
実は言葉では、清い者だから正しい者だから教会に来るのではないと言いながら、心のどこかには駄目な人間は行きにくい、駄目な自分は行きにくい、そんな風に思っているのではないか。だから、聖なる者となりなさいなんて言われると聖なる者でない自分はやはり駄目なのだ、こんな自分ではやはり教会にふさわしくないと思ってしまう。
もともと聖なるというのは、清いものというよりも特別に取っておく、特別に分けておくというような意味なのだそうだ。聖なる者となれということは、私たち人間が努力して清い人間になる、汚れをそぎ落とすということではなく、神によって特別に神のものとされること、神の民とされること、それが聖なる者となることだろう。そしてその神の民とされたのだから、神の民としてふさわしく生きなさいということ、それが聖なる者となれということだ。
実際は私たちは罪も汚れもいっぱい持っている。それをなくして聖なる者となることはきっとできない、またそうやって罪も汚れも失敗もない者となれというのではないだろう。いろいろな掟、律法を神は与えた。それによって罪を赦すと書いてある。しかしそれによって罪のない人間となることはない。これとこれを守れば汚れのない清い人間となる、ということも出てきてないようだ。つまり私たちは、罪も汚れもいっぱいあるままに、それなのに神の民としてくれた、その神に従い、その神の言葉を受け入れること、それだけが聖なる者となる方法なのだ。
最終的にはイエス・キリストによって、イエス・キリストの十字架の死によって私たちの救いは完成する。けれどもそれ以前においても、神は人々に赦しの道を用意し、ご自分の民として生きるようにということを語りかけてきた。その神の熱い思いは、旧約の時代も新約の時代も変わらないことなのだろう。
隣人を愛する
そしてその神の民としての歩みをしていく上でどのようにすればいいのか、それが律法なのだ。そしてその律法の基本が、神を神とすること、そして隣人を愛するということだ。
安息日を守ることや偶像を作ってはいけないということは、神を神として他の神々と混同してはいけないということだ。ちなみに安息日は週の7日目で土曜日のことで、聖日というのは聖書では基本的に土曜日の安息日のことを指すそうだ。
ここでは献げ物のことがでてくるが、それによって神との関係を大事にすることが言われている。と同時に、人と人との関係についても律法は言及する。父と母を敬えとか、収穫の時には落ち穂を残しておくようにとか、ブドウを全部摘んでしまったり落ちた実を集めてはいけない、それらは貧しい人や寄留者のために残しておくようにというのだ。そのあとにも、盗むなとかだますなとか、虐げるな、不正をするな、復讐するなというようなことが言われている。そんな人間と人間の関係についても律法は言及する。
そしてその基本となるのは、自分自身を愛するように隣人を愛しなさいということだ。これはイエスが、一番大事な掟は何かと聞かれた時に答えたものでもある。神を愛することと、自分自身のように隣人を愛すること、それが一番大事な掟であると答えた。
そしてそれが聖なる者とされた者の生き方なのだ、と神は教えているのだろう。
聖なる者とされたけれども、それは威張るようなものではない。自分たちは聖なるもので、お前達は違うのだというようなことではない。人はいろんなものに聖という言葉をつけたがる。聖書、聖堂、聖壇、聖地、聖戦、、、、。でもやっぱり飽くまでも聖なる者は基本的には神だけだ。そのことを意識してバプテストは聖という言葉を神以外には極力使わないようにしている。聖とつけることで威張りたくなる。けれども神は威張れではなく、愛しなさいと言われている。
私たちはやはり罪人なのだ。罪も汚れも持ったままだ。けれどもそんな私たちに、聖なる者となれ、神の民となれと、神は呼びかけてくれている。ただ神の呼びかけて応えて私たちは集められたのだ。いい人間だからとか清い人間だからとか、成功者だから集められているのではない。だからぼろぼろだろうと挫折していようと、失敗していようと落ち込んでいようと、そんなことは関係ない。そんな自分に呼びかけてくれている神に応えて集まる、それが教会なのだ。そんな時にこそ神の呼びかけは余計によく聞こえるに違いない。ぼろぼろのままで、落ち込んだままで私の所へ来なさい、神はそう呼びかけてくれているに違いない。だからそんな時こそ余計に礼拝に行くべきであると思うし、そんな人を温かく迎えていく教会でありたいと思う。
聖なる者となれ、わたしの民となれ、その神の呼びかけて応えて、そのことを感謝して喜びを持って生きていきたい。