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礼拝メッセージより
説教題:「協力する教会」 2003年9月28日
聖書:コリントの信徒への手紙二 9章1-15節
使徒会議
キリスト教会が異邦人の間に伝わるようになると、ユダヤ主義的なキリスト者たちは、異邦人も割礼を受けて律法を守るというふうに、一旦ユダヤ人とならなければ神の民とはなれない、と主張した。そのためキリスト者になるために一旦ユダヤ人にならなければならないのかどうかということが問題となった。そのためエルサレム教会の使徒や長老たちと協議するためにパウロとバルナバたちはエルサレムへ出かけてこの問題を協議した。その会議の様子が使徒言行録15章に書かれている。
激しい論争があったが、結局異邦人はユダヤ人となる必要はない、ペトロたちエルサレム教会はユダヤ人への宣教を、パウロとたの教会は異邦人への宣教を担う、そしてユダヤ人信者との交わりのために,偶像に供えた物,血と絞め殺した物,不品行を避けるようにという申し合せ事項を異邦人に書き送る、そしてパウロたちの教会は貧しいエルサレム教会へ献金するということになった。
パウロは使命を感じて異邦人伝道へと出ていったが、パウロ自身は生粋のユダヤ人であり、ユダヤ人がキリストを信じるようになることを心から願っていることが別の手紙に書かれている。けれどもエルサレム教会との関係はそんなに良かったというわけでもないようだ。ガラテヤの信徒への手紙では
「 2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」と書かれている。
それでもそのエルサレム教会への献金をパウロは勧める。コリントの教会がエルサレム教会のために献金していることをマケドニアの教会の人たちに誇った、そこでマケドニアの教会の人たちは奮い立ったと言う。もう言ってしまったからその通りにして下さいというような言い方になっているが、渋々するのではなく惜しまず出してくれというのだ。
与えること
そしてパウロの献金に対する考えは、6節以下にあるように、少ししか蒔かない者は借り入れもわずかで、豊かに蒔く人は借り入れも豊かである、そして喜んで与える人を神は愛してくれる、神はあなたたちが善い業に満ちあふれるようにあなたたちに恵みを満ちあふれるさせることができる、というのだ。「9:10 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。」とある。つまり献金しようとする者には神はその分の恵みを与えて、献金することで結ぶ実を成長させてくださるというのだ。そのことから感謝が生まれるという。また13節以下にはその結果どうなるかということが書かれている。
また8章の最初のところにも施しについて書かれている。とても貧しかったマケドニアの教会が進んで慈善の業と奉仕に参加させてほしいと願い出たという。その中で、「 8:5 また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げた」と言われている。献金することは神に自分自身を献げることなのだ。そしてどうしてそんなことをするのかと言うと、「 8:9 あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。 8:10 この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。」ということなのだ。イエス・キリストの恵みを知っているから自分を献げるのだ。イエス・キリストの死によって私たちが赦されているから、私自身をイエス・キリストに献げるのだ。
みことばに生きる
日本のクリスチャンの割合はずっと1%未満だそうだ。それがずっと続いている。どうして増えないのか。もちろんいろんな要因があるだろう。日本人の性格とか、歴史的なこととかあるだろう。
ある人は、その理由は教会が、キリスト者が御言葉に生きていないからではないかと何かに書いていた。生きていく中で、いろんなことがある中で、いつも御言葉に聞きながら生きていくということをしていないのではないかというのだ。問題が起こったとき、窮地に陥ったとき、そこで御言葉に聞くことから対処していっていないのではないかというわけだ。
クリスチャンとはどういう人のことか、と聞かれたらどう答えるだろうか。礼拝を休まないで、月約献金をして、時には聖書を読んで、ご飯の前にはお祈りをして、なんていう風なことを思い浮かべそう。礼拝に出てるし献金もしているから、自分はそれなりに一人前のクリスチャンだという思いになりそう。
確かにそれはそれでいいのだが、それなのに教会から帰った途端、あるいは礼拝が終わった途端、頭の中には御言葉は何にもなくなり、御言葉を基準として物事を考え判断することをしてきてないのではないか、そんな風に御言葉に生きていない、それがクリスチャンの割合が増えない原因ではないのか、というようなことをその人は書いていたように記憶している。
御言葉はなんなのか。日曜日に聞いて気持ちよくなる言葉なのか。しんどい時に慰めてくれる言葉なのか。確かにそれもあるだろう。しかしそれだけではない。御言葉は私たちを生かす言葉、私たちが生きていく上での道しるべとなる言葉なのだ。
信仰
ルカによる福音書「8:22 ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。 8:23 渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。 8:24 弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。 8:25 イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。」
あなたがたの信仰はどこにあるのか。困難に直面するとき、私たちもどうしよう、どうしたらいいんだ、もうどうにもなりません、おぼれそうですと言うような時がある。ずっとそうかもしれない。そんな時私たちの信仰はどこにあるのだろうか。御言葉に生きていないとしたら、私たちの信仰はどこにもないことになる。
と、偉そうなことを言っているが、教会の会計が随分赤字になっているということで、心配で眠れない時がある。どうかなるのか、どうにもなりそうにないなんて心配になる。会計報告を見るたびに嘆いている。全くお前の信仰はどこにあるのか、という感じだ。新会堂を建てるために何千万円もかかるということを心配してたよりも、今の赤字の数十万円の方がもっと心配しているみたいでよく考えるとおかしいなと思うこともあるけれど。
教会堂を建て直すことを決める時に、手許にお金が集まっていたわけではなかった。なのに建てようなんて決めたのはどうしてなんだろうかと思う。かっこいい言い方をすると祈って決めたということだろう。それが御心ならばあとは神さまの責任なのでよろしく、というようなことだったのではないか。そのために自分にできる精一杯のことはしますということだったはず。
目に見えるところでは、いっぱい献金してくれた人もいて、少し献金した人もいた。いろんなところから支援もあった。でもそれだけしか見ていないとしたら、誰それがこれだけ献金したということしか見ていないとしたら、一体神さまはどこにいるのか、私たちの信仰はどこにあるのか、ということになる。献金しようという思いになった背景には何があるのか、そんなことは私たちには分からない。わからないけれども、神さまの導きがあって、お金も人も、いろんなものが全部整えられてこうやって新しい会堂が建っているのではないか。神によって支えられてきた、そして今も支えられている、それが私たちの信仰なのではないか。その神の支えを見失うところでは、すこし風がふき、少し船が揺れるとおたおたしてしまうのだろう。あなたの信仰はどこにあるのか、とイエス・キリストは私たちにも問いかけているのではないか。あなたは御言葉に生きているのか、そう問いかけられているのではないか。
問題があるとき、私たちはもっと祈らないといけないのかもしれない。神が奇跡を起こしてくれるようにということではなく、それもうれしいが、それよりも、私たちがどうすべきなのか、私たちに何ができるのかを知るために祈る、そのための御言葉を与えてくれるように祈ることが必要なのではないかと思う。そしてその問題に対処していく勇気と力とを与えてくれるように祈る必要があるのではいかと思う。
マタイによる福音書「 6:19 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。 6:20 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。 6:21 あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」」
富のあるところに心があるとすると、私たちの心はどこにあるのだろうか。私たちの心は銀行や郵便局にあるのかもしれない。私たちの心が教会にないから教会に富がないのだろうか。
パウロは、コリントの教会に献金することを勧める。献金するということは心を献げることでもあるのだろうと思う。献金が自分自身を献げることであるということだ。そしてそのことによってエルサレムの教会との関係が生まれてくる。「 9:14 更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。
」という。献金は共に生きていく、一緒に生きていくということの具体的な現れでもあるのだろう。献金することは自分が貧しくなることだ、しかしそれは神の恵みを分かち合って生きていくことなんだと思う。財布のお金が少なくなることで、それには替えられない多くの恵みが与えられるのだろう。だから献金することは恵みなのだ。自分を献げることは恵みなのだ。
パウロの語るこの言葉を私たちもしっかりと聞いていこう。