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礼拝メッセージより
説教題:「十字架を掲げる」 2003年9月21日
聖書:コリントの信徒への手紙二 13章1-10節
父
コリントの教会の父とも言えるようなパウロにとって、教会の人たちが後からやってきた大使徒と言われるような指導者たちの言いなりになってしまっていること、それも真理からそれてしまっている教えに染まってしまっていることは、とても悲しいことであり、腹立たしいことでもあったのだろう。
パウロにとって大事なことは、十字架のイエスであり、それはどこまでも弱く愚かなままのキリストだった。しかしそのイエスは復活させられた。その神の力によって私たち弱い者も支えられているということだった。
けれども大使徒というような者たちは反対に強いイエスを伝えたようだ。パウロは弱く愚かなイエスに倣うような生き方をするようにと教えたようだが、大使徒たちは強いイエスに倣って強く生きるようにというようなことを教えたらしい。
どうも人は今も昔も強い者を尊重するようなところがあるらしくて、しかもかっこよく立派で話しもうまい大使徒と言われる人たちの言うこと、結局それはつまり自分たちも強くならねばというような話しだったのではないかと思うが、そっちの方が魅力的に思えてきららしい。パウロがいうような、力は弱さの中でこそ充分に発揮されるとか、わたしは弱いときにこそ強いとか、そんな弱いことを大事にするようなこと、弱さを持っていることが大事なのだなんてことをいうようなことは、どうもかっこよくないと思われていたらしい。神の力によって弱さを克服して、強く立派になることをコリントの教会の人たちも目指すようになっていたのだろう。
そしてパウロは使徒とは言えない者だ、と思うようになってきたらしい。それは大使徒たちが言っていたことなのかもしれない。私はあのパウロのような偽物の使徒ではなく、本当に使徒というにふさわしい者だ、パウロのどこに使徒らしいものがあるのか、あんなみすぼらしい、権威のない弱い人間のどこが使徒なのか、とかなんとか言っていたのではないかと思う。そしてコリントの教会の人たちも、そう言えばそうだ、この大使徒たちの方が見るからに使徒にふさわしい、彼らの方が立派である、と思って彼らには謝礼も渡していたらしい。そしてパウロに対しては、あなたのどこが使徒なのか、その証拠を見せてくれなんてことまで言っていたようだ。
吟味
手紙の最後にあたって、信仰を持っているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい、パウロはコリントの教会の人たちに向かってそう問いかける。そして続けて、キリストがあなたがたの内におられることが分からないのか、と言う。
つまり信仰とは、イエス・キリストが自分の内におられることを知ることだ。自分のうちにイエス・キリストがおられるという生き方をすること、それが信仰を持って生きるということだとパウロは言う。
そしてパウロはどこまでも、十字架の死に至までも弱いままを貫いたイエス・キリストを見つめている。イエス・キリストの生き様をいつも見つめている。
強さ
強さを求める習性が人間にはあるように思う。力をもつことを求めている。力をもつことが人間の目指すことであるような気持ちがある。力を持つ者、強い者こそが価値のある人間であり、弱い者は価値のない者というような感覚がある。
けれどもその強さを求める、力を求めるところに、「争い、妬み、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動」(12:20)が現れる。コリントの教会は仲違いし、分裂し争っていたことが書かれているが、その原因となったものは、それぞれが強さを求め、力を求めたことだということだろう。
強さ
パウロのいう強さとは、そしてキリスト者の強さとは、キリストが自分の内におられることによる強さということだ。自分自身が強い何者かになることではなく、弱い自分の内にキリストがおられることを知ること、それがキリスト者の強さなのだ。
誰にも威張れるような立派な人間でいることとか、誰にも負けない優れたものを持つことが本当の強さではない。
誰にも負けない強い信仰を持ち、何があっても揺らぐことのない強い信念を持つことがキリスト者の強さではない。むしろ逆に、その弱さの中に神の力が働くということを知ること、それこそが大事なことだろう。キリストが自分の内にいてくれることを知ること、それこそがもっとも大事なことだ。
自分自信が力を持つこと、強くなることを目指す、そしてそれを競い合う、人間にはそんな習性があるみたいで、教会の中でも同じようにいろんな強さを競いあってしまうような面があるように思う。聖書のことをこんなに知っている、教会はこうあらねばならないという知識をこんなに知っていることを自慢に思うこともある。またこれまで自分が積み上げた来たいろんな業績を競い合う、あるいは財産や学歴も競い合う、教会の中でもいろんなそんな強さ、力を競い合う。もちろん口に出して私はすごいでしょうなんていうことはあまりないだろうが、心の中ではいつも周りの人と争っているなんてこともある。あるいは私はそんな傲慢な心はありません、こんなに謙虚です、なのにあの人はなんなの、なんて謙虚さまで競いあったり。
自分が力を持ち強くなるごとに、それにつれて自分の弱さを感じる心が鈍くなっていくのかもしれない。そうするとそれだけ神の力を感じなくなってしまうことになる。神によって支えられて生きていることを忘れてしまう。神によってささえられているという感謝を忘れてしまう。
十字架
パウロは、私自身は弱くて愚かである、しかしこの私のうちにキリストがおられるのだと言う。私自身が強いのではない、私は弱いのだ、しかしその弱さの中に神の力は現れるのだという。そしてそれがイエス・キリストの生き方、十字架に至まで弱かったイエス・キリストの生き方なのだ。
教会が十字架を掲げているのは、弱く愚かな生き方を貫いた、十字架に至までその生き方を貫いたイエス・キリストを覚えるため、そのイエス・キリストに従っていくため、そしてその弱さの中に神の力が現れることを忘れないためなのだ。
私たちの教会も弱い教会、ひとりひとりも弱い人間の集まりだ。けれどもその弱さの中に神の力が現れる、神の力が発揮されるのだ。もっと強い信仰をもって強い人間に、もっと人数も増やして強い教会にと思う。けれども本当はこの弱さはとても大事なのだろう。人数も少ない、お金もない、知恵もない、力もない、そんな弱さを私たちももっと大事にしないといけないのだと思う。私たちの内にもイエス・キリストはおられる。この弱い私たちのその弱さの内に神の力は発揮されるのだ。そのことを私たちも大事にしないといけないのだろう。そしてその神の力によって生きる、それこそが信仰と言うものだ。
パウロは、コリントの教会の人たちにも、あなたたちの内にもイエス・キリストはおられるはずではないかと問いかけた。十字架で死んだイエス・キリストをよみがえらせたその神の力によってあなたたちも支えられているではないかと言った。コリントの教会の人たちはそのことを忘れて、仲間割れしお前達は間違っている、お前達は駄目だとお互いを駄目だ駄目だと責め合っていたのだろう。だから信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさいとパウロは言うのだ。神を信じて私はこんなに強くなりました、というのは本当は聖書の告げる信仰ではない。イエス・キリストが弱い私の内にいてくださることを知ることこそが信仰だ。
強さを求める生き方、それは十字架に背を向けて十字架から離れていく生き方だ。そしてそれは神からも離れていく生き方だろう。
私たちは十字架を見上げて生きていく。自分の弱さも、隣人の弱さも大事にし、その弱さの中に発揮される神の力を見つめ感謝しつつ生きていく。
十字架に背を向けているか、それとも十字架を見つめているか、私たちはどうなのだろうか。