聖書:コリントの信徒への手紙二 11章16-33節
弱さ
強いことはいいことのように思うことが多い。弱いことは悪いことのように思うことが多い。歳をとってだんだんと体が弱くなっていくことはだんだんと悪い方向へ向かって行っているということになりそう。
弱いということってそんなに悪いことなんだろうか。歳を取ることってそんなに悪いことなんだろうか。若いことはそんなにいいことなんだろうか。
教会の中でも若いからいい、ということをよく聞く。が、ある教会に行ったとき、そこはおばあちゃんと言われるような年代の人がほとんどだったが、若いからいいとか若くなりたいとか言う言葉をついぞ聞くことはなかった。そこの教会のおばあちゃんたちはパソコンを習ったり、グランドゴルフをしたりと、それぞれの人生を楽しんでいるかのようだった。
しかし世間一般では力を持つことを求め、力があることを自慢する。私はこんなすごいことができます、こんなすごいことをしてきました、なんてことを自慢げに話したことをよく聞く。
愚か者
けれども自分の力を自慢することは愚かなことである、とパウロは言う。コリントの教会にはそんな愚かに自分のことを自慢する大使徒と言われる人たちがいたということだ。そして大使徒たちはパウロは伝えたものとは異なったイエスを伝えていた。そしてコリントの教会の人たちは、その大使徒と言って自分を自慢しているような者の伝えた違った福音を受けることになってそれを我慢しているとパウロはいう。奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、我慢していると言う。
大使徒たちは一体どうやって大使徒となり、何を自慢していたのだろうか。説教もうまかったらしい。何がうまい説教なのかというのは難しい問題だが、とにかく聞こえのいい説教をしていたのだろう。そして見栄えも良かったのかもしれない。きれいなかっこいいそれなりの格好をしていたのかもしれない。そして彼らは自分のことをどうも自慢していたらしい。私はこんなことも知っています、こんなこともしてきました、こんなに努力しています、こんなに一所懸命にやっていますというような自分のことを自慢していたのではないかと想像する。
コリントの教会の人たちは、その大使徒たちに奴隷にされ食い物にされ、取り上げられ横柄な態度に出られ、顔を殴りつけられるようなことをされていたらしい。俺たちはこんなにすごい、あなたたちはそんなことでは駄目だ、もっともっと私たちの協力をしなさい、もっともっと献金しなさい、なんてことを言われていたのかもしれない。
パウロは彼らに対抗するかのように22節から自分のことを自慢する言葉を続ける。そんなことを誇ることはとても愚かなことであると言いつつ、それは分かっていると言いつつ、ここでは自分も愚か者のようにあえて誇ろう、と言うのだ。
きっと大使徒たちもこんなことを誇っていたのだろう。自分たちはヘブライ人である、アブラハムの子孫である、キリストに仕える者である、と。自分たちはあんたたちとは違うのだ。特別なのだ。特別に神に遣わされている者なのだ、あなたたちを教える側なのだというような気持ちがあったようだ。パウロが言うにはコリントの教会の人を奴隷のように扱う主人のような、そんな思いがあったということなのだろう。
私はこんなに立派である、こんなに立派にやってきた、こんなに優れたものを持っている、こんなすごいことができる、そんなことを誇りたいという思いがある。そして駄目な奴を見ると、お前達は駄目だ、今の若い者は何も分かっていない生ぬるいなんて行ったり、反対に今の年寄りは何も出来ない何の役にもたっていない、なんてことになる。
自分の強さを誇るところには、必ずその裏には人を見下げさげすむ思いがある。周りよりも自分が優れているのだという思いがある。周りは自分よりは劣っているのだという思いがある。
能ある鷹は爪を隠す?
でも本当は強いけど、それを隠して弱い振りをする、謙遜に振る舞うこと、それを弱さを誇るとは言わないだろう。こんなに弱いところがあります、と言うとき、こんな弱さも持っているけれども他の部分では力もあり強いのだという気持ちがある。強さをしっかりと持っているから、こんな弱いところもありますよと自信を持って言うことができるような面がある。でもそれはパウロが言う、弱さを誇るというのとは随分違うことだろうと思う。パウロは弱さを誇るという。強さを誇ることは私たちも得意だ。けれどもパウロは弱さを誇るというのだ。
パウロも、強さを誇ろうとすればいくらでもできる、大使徒と言われることを喜んでいるような者たちと比べても負けないくらいの自信もある。けれどもそんなことを私は誇らない。私は弱さを誇る、パウロはそう言う。
12章の所でパウロは、14年前に楽園に行ったかのような経験をしたことを語ったすぐ後に、思い上がることのないようにわたしの身にひとつのとげが与えられたと語る。それはサタンの使いだと言っているが、その使いを離れ去れせてくださるように三度主に祈ったがさらせてもらっていないという。そのとげとは何であるのか、てんかんではないかとかうつ病だったのではないかとかいろいろ説があるみたいではっきりとはしないが、とにかくパウロにとってはいやでいやで仕方ない持病か何かがあったのだろう。けれどもその持病をなくしてくれるように祈ったけれどもなくなりはしなかった。逆に
『 12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。』
という答えが返ってきたというのだ。
弱さの中に
神の力が弱さの中に現れる。私たちの弱さの中に神の力が現れるという。そうすると私たちは自分の弱さをそのままに抱えていていいということになる。それどころかパウロが言うように弱さこそ誇りとなる。自分の弱さの中にこそ神の力が発揮されるからだ。だから弱さというのは、克服したりなくしたりしなければいけないことではなく、却って大事にしないといけないことということになる。
自分の弱さを克服し強くなることを私たちは目指している。強い人間、強い国、強い教会を目指している。けれども現実の有り様を見ていると、強さを持った所では、周りを押さえつけ、周りを支配しようとする思いが沸き上がってくる。強さを求める所で争いが起こり、妬みが起こる。羨みが起こってくる。
強さを求める所には罪の実と言われるような事柄が次々と起こってくる。
『 11:29 だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。』
弱さを持っているということは苦しいことだ。けれどもその苦しみがあるから、人の苦しみも分かる。苦しみを持っているから、苦しんでいる人をいたわることができるのだろう。苦しみを克服した人は、あなたも克服しなさいと言う。けれども今苦しんでいる人は相手の苦しみが分かるだろう。強い人間は、あなたも強くなりなさいという。けれども弱い人間は相手の痛みが分かるだろう。
そんな自分の力を誇示して自慢することよりも、誰かの弱さを苦しさを共感することの方がよほど喜びは大きい。そしてそれをパウロも大事にしているのではないかと思う。そんな人間の繋がりを大事にするように、力を競い合って争うことの空しさをパウロも良く知っているのだろう。だからこそ自分弱さを大事にしそれを誇るのいうのだろう。
そしてその弱さの中に神の力が発揮されるというのだ。一体その神の力とはなんなのだろうか。そこでその人の弱さがなくなるということだろうか。きっとそうではないだろう。弱さをしっかり持つ力、弱さを持ちつつ生きる力を神は与えてくれるということだろう。そしてそんな弱さの中でこそ、私たちは本当の神の力を、神の恵みを知ることができるのだろう。神を信じ神に頼ることを本当に知るのはその弱さの中でこそなのかもしれない。そうすると弱さは私たちと神とをつなぐものということになる。神との繋がりをそこで持つことができるから、その弱さを誇るのだ、パウロはそう言っているのではないか。