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礼拝メッセージより
説教題:「和解の言葉」 2003年9月7日
聖書:コリントの信徒への手紙二 5章11-21節
ありのままに
自分の本当の姿を知られたくないと思う気持ちがある。本当のことを知られたら、それで相手が自分のことを嫌ってしまうのではないか、変な奴だというような目で見るのではないかというような恐れがある。だから人に対して自分のいやな部分を見せないようにし、自分のいいところだけを見せようと努力する。そしていやだと思っているところを見せてしまった時、つまり任せとけと言ったのに上手にできなかったり、失敗したりしたとき、頼まれたことを忘れてしまったりした時、そんな自分の悪い部分と思っている所を知られてしまったような時に、相手が自分のことをどんな風に見るのかということがとても心配になってしまう。相手にすまないことをしたということを悔いるよりも、相手がそれで自分のことをどう思うかなんてことばかりを気にしていた。
そんな風にへまをしては相手がどう思うだろうかということをやたらと心配して相手がどんな態度になるかということをずっと心配していた。そしてそんなことばかり心配している自分がまたほとほといやだった。
ある時またへまをして相手の反応を気にしてのだが、その時ふと考えた。失敗ばかりしているこれが自分の本当の姿じゃないか、その自分の姿を見られても、本当の自分を見られただけじゃないか、それで嫌われようがどうしようがそれが本当の自分の姿だったら仕方ない。本当の姿を隠そうとするから余計な気を使ってしまうのだ。そもそもいいところしか見せない人間関係なんて本当の人間関係じゃないではないか、失敗ばかりのだらしない、そんな本当の自分を相手に知ってもらうことから本当の人間関係が始まるのではないか、そんなことを思った。そうすると、相手が自分を嫌うのではないかというような恐れもなくなり、悪いところを隠そうとする変な気負いも必要でなくなりすごく楽になった。
もちろん誰に対してもそう思えるわけではないし、相変わらずいいかっこをする癖は直らないが、自分のことを知ってくれているという人に会うことはとても楽になった。
自分のありのままの姿を知られているということは恥ずかしいことのように思うが、でもそれを恥ずかしいと思うのは自分自身がそう思っていることでしかない。こんなことを知られたら嫌われると思って一所懸命に隠していることも、そのことを自分自身で嫌っているから隠しているだけということが多いのだろう。本当は隠す必要もないのに、知られてはまずいと自分が思うから必死で隠す。でもそれはとてもしんどいことだし、とても窮屈な生き方だ。
自分の失敗を人に話せる人が羨ましいといつも思うが、自分の失敗したことを話せないのは、案外自分の失敗を、そして失敗する自分を、自分自身が赦せないからなのだろう。
教会では、キリストによって全ての罪は赦されていると言われる。神様には赦されていると思う、けれども自分は赦さない、そんな面が結構多いのかもしれない。自分で赦せないから、周りからも責められるのではないかと怯えているのだろう。
パウロは、「私たちは神にはありのままに知られています。、わたしはあなたがたの良心にもありのままに知られたいと思います。」と言う。外面だけではなく、それよりも内面を自分のありのままを知って欲しい、強さも弱さも何もかも知って欲しい、そしてあなたたちへの思いを、熱い思いを知って欲しいということだろう。外見によってだけ判断するのではなく、内面のことも知って欲しいという思いがあるようだ。そしてそんな何もかも知り合うそんな人間関係を築きたいということでもあるのかもしれない。
外見
しかし見た目ばかりに左右される人たちがコリントの教会にもいたようだ。
どんな服を着ているということもあるだろうし、今までどんなことをしてきたか、どんな成果を上げてきたかなんてこともあるのだろう。あるいは、結局はその人の能力や地位や財産というようなことも外見の一部である。そんなことで人を判断するような人がコリントの教会にもいたようだ。
パウロも大勢にバプテスマを授けたわけではなかったらしく、そのために低く見られるようなところもあったらしい。おまけに見かけもそれほど大したこともなく、話しもそんなにうまくなかったらしく、そうするとあまりパットしない人間という見られ方をしていたとしても不思議ではない。そこに流暢な説教をするかっこいい伝道者が現れると、そっちの方へ気持ちが揺れるのも無理からぬことかも。そしてパウロはバプテスマの人数も少ないがこの人はこんなに多い、パウロはよく訳の分からない異言なんてのを語るがこの人はまともである、なんてことになるとこの人はすごいということになってしまいそうだ。そして多分そんな風に、あの人はすごいということを言われたいために、そんな風に言われるために一所懸命になっている人もいたのだろう。
今の教会でも、どれくらいの人にバプテスマを授けたか、どれくらい教会の人数を増やしたかというようなことが牧師の評価となったり教会自体の評価でもあるような見られ方をすることもある。そしてバプテスマの数が少ないということでうちの教会は駄目な教会だと思うことも多いのではないかと思う。バプテスマが何人、献金がいくら、礼拝人数が何人、確かにそんなことがとても気になる。でもそれも外見のことであることに違いはない。そんな目に見えることばかりを気にしていると、少ないときには卑屈になり、多くなったときには誇らしげに威張るようになるのだろう。でもそんなことばかりを気にしていると本当に大事なことが見えなくなってしまう。パウロはそんなことをとても心配しているのではないかと思う。
肉によって
パウロは、「それで私たちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」という。肉に従って知るとは、外面的なものによって、外見によって、才能とか地位とか名誉とかそんなことも含めた外見によって知ることはもうしない、と言う。キリストを肉に従って知るというのは、生前のキリストを見たとか話しを聞いたとか、そんな風な知り方をしないということなのだろう。中には、教会の中でも直接見たとか聞いたとか、直接見た人から直に聞いたとかいうことを誇らしげに語っていた人もいたということかもしれない。
あるいはまた、外見によってキリストを知るということは、キリストが奇跡を行ったとか、人を癒したというような強いキリストばかりを見ることで、十字架のイエスを見ない、十字架の意味を考えないということでもあるのかもしれない。イエスはこんなすごいことをしたのだ、こんなすごい奇跡を行ったのだ、とは思っても、十字架の死によって私たちの罪は赦されているということを考えないとしたら、それは肉に従ってキリストを知るということになるのだろう。
けれどもパウロは、もうこれからはそんな知り方はしない、というのだ。キリストに対しても、そんな肉によって知るようなことはしない、誰に対してもそんな知り方はしないというのだ。つまり、キリストについては、私たちの罪のために死んでくださり、私たちを神と和解させてくれた、そういう知り方をするというのだ。まわりの人についても、そのキリストによって罪を赦された者、それほどに神に愛されている者、そんな者同士、そういう見方をするということだろう。
和解
パウロはまた、神はキリストによって世をご自分と和解させて下さった、だから神と和解させていただきなさい、と言う。外見ばかりを気にする人たちは神と和解していなかったということなのだろうか。教会に来て教会員としての生活はしていたのだろう。礼拝も献金もしていたのかもしれない。しかし神と和解しているという意識はなかったということだ。クリスチャンらしい振る舞い、クリスチャンらしい生活をしていながら、神が自分の罪を赦して下さり、神と和解しており、神の義を得ている、キリストによってキリストの十字架の死によってそうされているということが曖昧のままだとしたら、それは不幸なことだ。神からの和解を自分が受け止められないならば、それはとても残念なことだ。
神自身が歩み寄って来て下さり、私たちと和解してくださっている。キリストによって私たちの責任を全部赦して私たちの罪を全部赦して、私たちとの正しい関係を造り直してくれている。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく想像された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」と言っている。全部神から出たこと、全部神がしてくれたことだというのだ。
キリストは奇跡を起こしてみんなを驚かせ、びっくりさせてついてこい、ついてこないととんでもないことになるぞと脅すために来たのではない。神と私たちを和解させ、私たちを神と共に生きることができるように、神のために生きるようにするために来られた。そのことを受け入れること、それがキリスト者というものだ。外見は問題ではない、外見はどうでもいい、ただイエスによって赦されて神との正しい関係に生きている者こそがキリスト者なのだ。そしてその和解の言葉を神は私たちに託されているというのだ。私たちはその和解の言葉を預けられている。
何よりその和解の言葉を受け入れて、そのことを感謝し喜びを持って生きること、それこそが私たちにとって大事なことなのだろう。教会員らしいかどうか、クリスチャンらしいかどうか、私たちはそんなことに縛られてしまっているのかもしれない。そしてそんなことにばかり気を使い過ぎて喜びもなくしているのかもしれない。
福音は私たちにもっともっと喜びを与えるもの、私たちをもっともっと自由にするものだと思う。そこから伝道する力も沸いてくる、教会に人を迎えようとする気持ちも沸いてくる、そしてみんなが一緒に生きる喜びも沸いてくるのだと思う。