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礼拝メッセージより
説教題:「一番の掟」 2003年8月31日
聖書:マルコによる福音書 12章28-34節
愛の宗教?
キリスト教は愛の宗教と言うことを聞くことがある。とりあえずそんな定評がある。愛とは何か。愛するとはどんなことか。それはなかなか難しい。
♪主我を愛す、主は強ければ我弱くとも恐れはあらじ
我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス我を愛すクリーム♪
律法
一人の律法学者がイエスに質問した。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」当時「掟」と言われるものが600以上あったそうだ。いっぱいありすぎて何が何だかわからん、と言った状態だったのかも。学校の校則もいろいろあるらしいし、日本の社会も規制もいっぱいありすぎて、規制緩和をしなければと言うことをよく聞く。どうも人間は決まり、とか規則とか、掟とか、いろいろと作りたがるし、それをありがたがる動物なのかもしれない。まあそんなことでどれが一番大事なものなのかがよくわからん、と言うことになっていたようだ。
それに対してイエスの答えは、第一が『イスラエルよ聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』、そして第二が『隣人を自分のように愛しなさい』。第一の掟は何かと聞かれたのに対して、イエスは第一と第二とを答えた。ということは第一と第二は同じように大事で、これがセットになっているということなのではないか。おそらくこの二つの掟は切り離せないものなのだろう。
で、この掟の前半の掟「神を愛せ」と言う掟は昔から大事だと言われてきた掟だったようだ。ユダヤ人たちは毎日朝と夕方に唱える信仰告白のようなものがあるが、その最初の部分がこの前半の掟の部分で、だれもが知っている掟、だれもが大事だと言うことを知っている掟だった。しかし神を愛するとはどういうことなのだろうか。
一所懸命に礼拝することか、真心から礼拝することか、ひたすら祈ることか、どっさり献金することか、精一杯奉仕することか、あるいは律法にあるように傷のない一番いい犠牲をささげることか。とにかくひたすら神の方向を向いて、ただただ神に従うこと、まわりのものに目もくれず、神へ神へ進んでいく。そんなイメージがある。当時のユダヤ人にとってもそんな思いがあったのではないか、と勝手に想像している。「神を愛する」ということは神と自分との関係なのだと思う。
愛すること
一番大事な掟が、ただ神を愛せ、と言うだけなら、その一つだけだと言うならば、神を愛することが、神と自分だけの関係と言えるのかもしれない。ただひたすら脇目も振らず神を見つめることが一番大事なことということかもしれない。
しかしイエスは第二の掟を付け加えた。それは、神を愛すると言うことが、隣人を愛すると言うこととセットなんだと言いたげだ。とにかく神を愛すると言うことと、人を愛すると言うことが、密接な関係にあるということに間違いはないのではないか。神を愛することと、人を愛することは同じであるということかもしれない。神を愛するということの具体的な事柄が、人を愛すると言うことになるのかもしれない。
では人を愛するとは具体的にどういうことなのか、と言うことをよく考える。結婚式なんかをするときには特に。
「愛している」と言うはたやすいが、実際に愛しているのかどうかもようわからんというのが実際のところなんかもしれない。相手を大事にすると言うことはどういうことなのか。
たとえば、もし自分が何か間違いを犯してしまったとき、どうにか赦してほしいと思う。嬉しいことがあったとき、いっしょに喜んでほしいと思う、悲しいことがあったとき慰めてほしいと思う。寂しいときにはそばにいてほしいと思う。自分がそうしてほしいとき、そうしてもらえれば、愛されていると思う。逆に言えば、相手がそれをしてほしい、というそのことをすることが愛すると言うことになるのだろう。
自分に対して何か間違いを犯したものを赦すことはなかなかできない。人が喜んでいることをなかなかいっしょに喜べない。人の不幸のほうを喜ぶ、そんなことの方が多い。自分が何かあったときにはいろいろしてほしいが、他の人がどうあろうと知らん顔をすることが多い。同じことが起こっても、自分と人では全然違うことになる。でもイエスは、隣人を自分のように愛しなさいと言われる。自分のように。隣人に起こったことが自分に起こったこととしなさい、と言うことなのだ。
以前読んだ本の中で、監察医の人の書いたものがある。死体を検査して死因を調べる人の本。その中に交通事故の検死をしたときのことが書いてあった。車がスピードのだし過ぎで事故になった。その車に乗っていた四人の友だちはみんな死んでしまった。車に同乗していた自分の子どもが死んだので運転していた者の責任だとして、多額の慰謝料を請求していた人がいたと言う。四人は友だちでも、その親たちは知らない同士だった。三人の親がひとりの親に慰謝料を払えという話しになったが、実際は誰が運転していたのかはっきりしないということで、監察医の人のところへ相談があった。ところがこの監察医が事故の資料を調べると、運転していたのは、金を請求していた方の家族だったことが後でわかったそうだ。その後どうなったかは聞いてないそうだ。自分が優位な立場にいるとなると相手を責めて慰謝料を払えなんて言う。向こうの子どもも死んでいるのだが。
これが人間のありのままの姿なのかもしれない。自分が優位に立っている、となると人は相手を見下して、責める役回りになってしまう。自分のミスでまわりに迷惑を掛けてしまって落ち込んでいる人に向かって、お前が悪いんだと殊更に責めるようなことがある。子どもと親の関係なんてのは、特にまだ子どもが小さいときは親の方が圧倒的に優位に立っているものだから、親が何か間違ったり失敗したときには、ごめんね、と済ませてしまうくせに、子どもが何かをしでかしたときには、お前がこうしたからこうなったんだ、としゅんとなっている子どもに追い打ちをかけるようなことをいうこともある。子どもとか弱い立場のものに手を挙げたりすることもある。ひどいのになると、殴りながら、これは愛しているからだ、なんて言ったり、そう思っていたりする。でも本当はそんなのは愛ではないのではないかと思う。愛の鞭なんてのが本当にあるのだろうか、と思う。矛盾した言葉のように思う。しかし考えれば考えるほど愛することは難しいように思う。自分には愛はない、と言うのが実状なのかも。
イエスは、自分を愛するように相手を愛しなさいと言われた。「自分のように」相手のことを思うことが愛することなら、愛するとはとてもしんどいことだ。その気にならなければ相手のことなんて思わない。デートしている最中なら結構相手のことを考えることもある。相手のために、相手が喜ぶように、と言うことも考える。しかしそれ以外にはなかなかそうは行かない。自然にはいかないから掟となっていると言うことかもしれないが、愛そうと思わない限りは愛するなんてことはできないのだろう。しかしそういわれてもなかなか愛せない。わたしたちはただ愛せと言われてもできない生き物だと思う。
でもこんな私たちをイエスは、愛している。そして私たちの身代わりに十字架についてくださった。私たちの代わりに痛い思いを、苦しい思いをしてくださった。イエスは私たちを自分のように愛してくださっている、だからあなたたちも愛しなさいとイエスは言っているのだ。
だからきっと愛とか、愛するとかいうことはしんどい言葉なのだ。浮ついた言葉ではない。若い夫婦のための本にも書いてあった。愛するとは、自分の感情の状態ではないのだ。あなたを愛している、と言うのは、今の自分の心の状態、たとえば今のわたしの気持ちはあなたを好きなんですよ、と言うこととは違うのだ。愛するとは、相手をこれから大事にしていく、と覚悟すること、決心すること、決意の言葉なのだ。感情ではなく、意志なのだ。
神が私たちを愛している、ということもそういう意志を神が持っていると言うことなのだ。神が私たちを愛するというのは、神が今、たまたま私たちを気に入っている、と言うことではない。気に入らなくなればやめてしまうといったようなことではない。神は私たちを大事にするという決断をしたということなのだ。私たちがいいとか悪いとかいうようなこととは関係なく、私たちを愛するという決意をされたということなのだ。私たちは自分が神さまの言うとおりにしていないと神さまから嫌われ見捨てられてしまうのではないかなんてことを心配する。けれどもきっと神が私たちを愛するというのは私たちの状態を見て判断して、いい子だったら言うことを聞いてやるというようなこととは違うのだと思う。神が私たちを愛するというのは、神がこの私たちの全てを抱え込んで、守り支え続けると決意したということなのだ。
そして、だからお前たちも愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい、と言っているのだ。それは神が、わたしはお前を愛している。だから、お前も隣人を愛しなさい、と言うことだ。お前のことはこの私が全部面倒を見る、私が支える、だからあなたはあなたの隣人を愛しなさい、そう言われているのではないか。
聖書のいう愛と一般の愛とはかなり意味が違うようにも思う。しかし教会の中でもかなり手垢の付いた言葉かもしれない。愛なんていうと最近は聞き飽きて耳にたこの言葉かも。でも聖書は、愛しなさいと繰り返す。それを神は第一に求めている。期待している。
コリントの信徒への手紙一13章に愛のことが出ている。
誰にもできないことをできるようになりたいと思う。そしたらどんなに自慢できるだろうかなんて。超能力があればきっとみんなに自慢してまわるだろう。教会の中でも、あの人にはこんなすばらしいことができる、あの人は優れているなんて言われたいと思う気持ちがいっぱいある。
でも、どんな良いことをしても、どんなに自慢できるようなことをしても、愛がなければ何の意味もないと言われている。愛は最も大いなるものなのだ。とパウロはいう。