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礼拝メッセージより
説教題:「神の言葉を語る」 2003年8月24日
聖書:コリントの信徒への手紙二 2章14-17節
第二の手紙
コリントの信徒への手紙二は、いくつかの手紙がまとめられたものらしい。どうも書かれた順番から言うと、2章14節が一番早い時期のものらしい。書かれた順番から言うと、2章14節〜7章4節、10章〜13章、1章〜2章13節、最後に7章5節以下という順番だそうだ。道理で13節との繋がりが全くないわけだ。
評判
パウロは誰からも認められて尊敬されていたというわけではなかったらしい。10章10節には「わたしのことを、手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話しもつまらないと言う者たちがいる」なんてことが書かれている。パウロの説教はつまらない、面白くない、どうもそんな評判もあったらしい。ということは反対に、この人はいい説教をする、この人の説教は面白いという風に言われる説教者もいたということだろう。そしてどうもそんな耳障りのいい説教をすることで、教会から報酬をもらう者もいたらしい。パウロも説教者が教会から報酬をもらいこと自体が悪いと言っているわけではないようだ。コリントの信徒への手紙一9章には、「 9:4 わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。 9:5 わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 9:6 あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 9:7 そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 9:8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。 9:9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 9:10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。 9:11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。 9:12 他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。 9:13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。 9:14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。」ということが書かれている。福音を宣べ伝える者が福音によって生活の糧を得るようにと主が指示しているという。けれども報酬をもらうために福音からそれて、福音を妨げて、聞く者が気に入るような説教をするとなれば、それはおかしなことである。
香り
パウロは、「 2:14 神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます 2:15 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。 2:16 滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」と語る。私たちはキリストを知るという知識の香り、神にささげられる良い香りだと言うのだ。香りを放つにはそれなりの素が必要である。私たちにとってその香りの素は、神の言葉、水増ししてない、毒消しをしてない、純粋なキリストの言葉なのだ。滅びる者には死から死へ至らせる香り、救われる者には命から命へ至らせる香りなんてことをいう。人を滅ぼしたり生かしたりする、それほどの大切な香りを放つ、あなたがたはそれほど大切な言葉をもらっている、預かっているのだということだろう。人を救い出す力のある神の言葉をあなたがたは聞いている、そしてそのあなたがたが、神の香りを漂わせるのだ、とパウロは言う。神の言葉をしっかりと聞くこと、ただ聞こえのいい、耳障りのいい言葉ではなく、神の言葉を神の言葉としてしっかりと聞くこと、そこから始まる。
売り物
パウロは、そのために自分も神の言葉をそのままに語ったと言う。「2:17 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず」と言っている。
この売り物にするということばは、売り歩くとか商うとかいう言葉らしいが、当時はこの言葉が酒を水増しする時に使われた言葉だそうだ。酒に水を加えて薄くして儲ける時に使われた言葉だそうだ。ということはパウロが神の言葉を売り物にしないというのは、神の言葉に余計なものを混ぜて薄めてしまうようなことはしないということらしい。だから誠実に語る、また神に属する者としてキリストに結ばれて語るというわけだ。
神の言葉
私たちは聖書を、また説教を神の言葉としてどれほど聞いているか。真剣に聞いているか。聖書の中にも矛盾することもあるのは確かで、現代にこの聖書の言葉をそのまま字面通りにもってくることに無理があることも確かにある。それはそれとして、聖書を通して神が語りかける言葉を私たちはどれほど神の言葉として聞いているだろうか。
それは理想論だ、きれいごとだとして、そのことは自分にはできもしないという一言で片づけてしまって、自分の都合のいいところだけは自分の懐にいれて、自分に都合の悪いところはゴミ箱にすててしまっているなんてことが結構あるように思う。
神さまはあなたを愛しています、あなたの罪を赦してくれています、なんて所は心の中に大事にしまって置くけれども、私に従いなさい、あなたも同じようにしなさい、愛しなさい、仕えなさい、そんな言葉は聞かぬ振りをしている、それが今の私たちの姿なのかも知れない。もらうものはいっぱいもらうけれども、自分からは何も差し出さない、自分の財産も能力も何も出したくない、それが私たちの姿なのだろう。
もちろんできることとできないことはあるだろう。とても実行できないと思うようなこともある。けれどもとにかく先ずは神の言葉をそのままに聞くことが大事なのではないかと思う。できないから関係ないといってその言葉を捨ててしまうこととか、あるいはその言葉を水増しすることとか、その言葉に余計な注釈をつけるようなことがあってはいけないのだ。
またこの聖書の言葉、説教の言葉、おはなしの言葉をどれほど神の言葉として聞いているだろうか。これはあの牧師が説教の中で言った言葉、あの人がおはなしで言ってた言葉というだけで、それがただその人の言葉としてしか聞いていないとしたら、それを神の言葉として聞いていないとしたら、それは私たちを救い、私たちを生かす言葉とはきっとならないのだろう。
たとえば自分の大好きな人がいたとして、その人があなたのことを好きと言っているということを他の人から聞いた時に、その話が本当にその好きな人の言葉して聞いたときには飛び上がるほどうれしくなるだろう。けれども、そんなのは誰かが自分をだまそうとしている戯言だと思えば、だまそうとする人が憎らしく思える。
聖書を読んでも、説教やお話しを聞いても、それを神の言葉として聞けないとしたら、それは私たちを生かし、私たちに喜びを与えるものとはならないだろう。その言葉によって、キリストに結ばれなければ、それは何の意味もなくなる。神の言葉として、キリストの言葉として聞けなければ、私たちを生かし力づける言葉とはならないだろう。
キリストの香り
私たちは神の香りを漂わせる者とされているではないかとパウロは語りかける。キリストの香りとなるその素となる神の言葉を聞いているではないか、神の言葉が私たちの中に宿っているではないか、パウロはコリントの教会の人たちにそう語りかけている。 聖書は私たちに向かって、今度はあなたたちがその香りを周りに振りまく者となるのだ、あなたたちが神の言葉を伝えるものとなるのだ、そう語っているのではないか。私にはそんなことはできないとすぐ思う。けれども神の言葉をそんな私たちを奮い立たせる力のある言葉でもあるのだろう。
私たちの口を通して、あるいは私たちの振る舞いを通して、福音を伝えて行こう。その力が私たちになくても、神の言葉自体にその力があるのだと思う。
私たちの才能で福音を伝えるのではない。私たちの力で説得して信じさせるのではない。神の言葉に生かされ、神の言葉をそのままに語るところでは、神の言葉は広がっている力があるのだと思う。信じる力は、神の言葉自体が持っているのだと思う。だからこそその神の言葉を邪魔することがないように、薄めることもないように、そのままに語り伝えて行きたいと思う。
そのために、先ずは私たちがこの神の言葉を神の言葉として真摯に聞き、この言葉に生かされていこう。