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礼拝メッセージより
説教題:「本当に大事なこと」 2003年8月17日
聖書:コリントの信徒への手紙一 15章1-11節
大事なこと
コリントの教会の人たちへ、パウロはいろんなことを語ってきた。仲違いしている分裂しているような教会の人たちに対して、いろんな忠告をしてきた。
そしてこの手紙の最後のところで改めて一番大事なことは何なのかということを語る。それは「あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音」のことであるという。そのよりどころとする福音をしっかり覚えていれば救われる、そうでないと信じたこと自体が無駄になってしまう、そんな大事なことである。
その大事なこと、それはパウロ自身も受けて、そしてあなたがたにも伝えたこと、それはキリストが聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したことであるということ。その後いろいろな弟子たちに現れ、最後にパウロ自身にも現れたということ。それこそが最も大事なこと、これこそが福音の根本であるとパウロは言うのだ。
復活
コリントの教会の中には死者の復活はないと言う人がいたという。確かに、いったいどんな風に復活するんだろうかなんて考えると、本当にそんなことあるのだろうかという風に思えてくるのも不思議ではないかなという気もする。その証拠を見せろと言われても見せようもない。
どんな風に復活するの?この身体のまま?それともきれいな身体になって?
よく分からない、というのが正直の所だ。それがわからないと復活なんて本当にあるんだろうか、なんて気にもなってきそうな気がする。実際にはよくわからない、それこそ聞いたことを信じるしかないことかもしれない。けれども復活があるからこそ、私たちの信仰がある、教会がある、これがなければ信仰は全く無駄なことだ、パウロはそんな風に言う。神を信じるということと同じく、キリストの復活、そして死者の復活、それは私たちの信仰にとっては大前提なのだ、ということだ。
15章の35節以下に復活の体のことが書かれている。
15:35 しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。
15:36 愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。
15:37 あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。
15:38 神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。
15:39 どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。
15:40 また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。
15:41 太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。
15:42 死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、
15:43 蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。
15:44 つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。
15:45 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。
15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。
15:47 最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。
15:48 土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。
15:49 わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。
15:50 兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。
15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
15:53 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。
復活の体はどうやらこの今の体とは違う体のようである。今のこの体は朽ちるものであり、卑しいものであり、弱いものであるけれども、復活の体は朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものとなるという。そしてそれは霊の体であるという。それは何なのだといわれても説明しようがない。ただ神から与えられる霊の体として復活する、そうパウロは言うのだ。どんな体なのかよく分からないが、とにかく輝かしい朽ちない体で復活するという。
人は必ず死を迎える。死を通り抜ける。けれどもその死は決して敗北ではないということだ。どんなに嬉しい楽しいことがあっても、結局は暗い闇が待っているとしたら何もかもつまらなく空しくなってしまう、昔そんなことを考えたことがあった。結局死ぬんだからおもしろおかしく生きればいいという考えもあるのかもしれないが、実際には暗い死が待っていると思うと生きること全てが空しく思えてきた。
しかし聖書は、死は敗北ではなく暗闇ではないという。キリストによって、私たちは死に勝利しているというのだ。
15:54 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。
15:55 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。
15:58 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
死は勝利にのみこまれたという。死によって私たちは敗北するのではない、そこで全てが断ち切られるのではない、死の先もさらに私たちは神の手の中に、神の導きの中にあるということだ。死のこっちと死のむこうは全く別世界ではあるが、神の手の中にあることから言えば、死のこちらも向こうもつながっている。
キリストの復活はそのことの証明であり、私たちも同じように復活するという確かな約束であるということだ。キリストが死に勝利したから、私たちも死に負けることはなく、死に際しても神の手の中にあり続けるのだ。
希望
キリスト者は死を越えたゆるぎない希望を持って生きる者である。死をも越えた希望がある、そこから今のこの命を生きる力を与えられる。今のこの命を、この人生をあきらめたことで、死んだ後の希望を持つというのではない。どこにも希望がないからただ死んだ後に希望を持つのいうのではない。死をも越えた希望があるから今のこの命、もろい、はかない、この限りある命を生きる力が与えられるのだ。
キリストの十字架の復活を通して、弟子たちは自分が赦されていること、自分の全てを神が支えてくれていること、死の向こう側まで支えてくれていることを知った、だからその希望と喜びを持ってキリストを伝えていったのだ。その希望は今生きているこの自分を力付ける、そんな希望だったのだ。