聖書:コリントの信徒への手紙一 12章12-31節
からだ
からだがいろいろな部分からできている、ということ。当たり前ではある。くどくどという感じすらする。
ここでパウロはキリストの体について語っている。
27節「あなたがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」そしてキリストの体とは教会のことだと言っている。
いろいろな部分
体にいろいろな部分があるように、教会にもいろいろな部分がある、というのだ。みんな違うのだ。みんなが同じではない。
みんながそれぞれに違っている、けれども違っていながらひとつの体を形作っている。違っているから私は別の体である、という訳ではない。違っているから同じ教会の中の一員ではない、とは言えない。違っていていいのだ。
また違っていないといけない。みんなが同じではいけない。クローン人間の集まりではいけない。みんな同じかっこうして、同じ考えを持っていてはいけない。それでは体として成り立たない、教会としても成り立たない。違う人間が集まってこそ教会となる。
みんなが大事
違う部分が集まってやっとひとつの体として成り立つように、違う人間が集まって教会となる。体の部分がそれぞれに大事なように、教会の中の人間もそれぞれが大事な一人一人なのだ。あってもなくてもどうでもいいような者はいない。
私なんていても何の役にも立たないから、と言う人が教会にもいる。あの人のように立派なことができない、献金もできない、能力もないという人がいる。教会の役に立たない、社会の役にも立たない、という人がいる。
でもパウロは誰に向かっても「お前は要らない」「お前たちは要らない」とは言えないという。却って他よりも弱く見える部分が必要だと言う。つまり、人間的に見て、必要ないと思えるような人こそが実は一番必要なんだ、というのだ。
今の社会はだれもが弱くないことを目指している。力を得ることを目指している。
『近年、とみに強調されてきたのは「強さ」や「力」の鼓舞である。子どもたちは「速さ」と共に「強さ」を要求されて育てられている。「負けちゃいけないよ」「この競争社会を生き抜くために」「生き残りをかけて」いずれも強さの強調である。しかし、それに比例して社会全体から慎みや礼儀、思いやりやいたわりといった人間関係の基本的な要素が失われていったことは明らかである。とにかく勝てばよい、もうければそれでよいのである。しかし、私たちは「誰も信用できない」という心の孤独を体験することになってしまったのである。』
『ところで、トゥルニエはこの本(強い人と弱い人)の中で次のように言っている。「人間の本当の価値は人がどれだけ近いかにある。現在人類が必要としているものに、親切、安心、情緒、感受性、美、直感といった属性がある。ところが今日それらは「弱い」というレッテルの下に捨て去られている」』 (「いのちのことば」 97年1月号)
弱いと言われる人、弱いと分かっている人が実は必要である。
パウロも「体の中で他よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」と言っている。
自分は何もできないから、何の役にも立たないからだめだ、と思う必要はない。その謙虚さはとても大事だろうが、その謙虚さを持ち続けてできることをしていけばいい。何もできないに固執することはない。多分何もできない、と思うからできなくなるんだと思う。
自分が駄目だと思う人を神が格好よくしようとし、見栄えよくしようとするのだから。その人の上に神は力をあらわすということだ。
キリストの体
神はキリストの体として私たちを集められた。そして私たちを体として組み立てられた。必要に応じて、必要なところに組み合わせた。神が組み合わせているのだ。神が必要と思っているところに必要な人を集めている。神がそうしているのだ。私たちは神が集められたのだ。神によって集まられているのだ。神が必要だから。教会にとって必要だから。
お互いを必要としている
また私たちはお互いが必要である。ひとつの部分がないと体がが成り立たないように、誰もが必要である。またからだのひとつの部分が調子悪ければ体全体の調子も狂ってくるように、一人の人が苦しむことは教会全体の苦しみでもある。
迷惑をかけたくない、と思う。自分がいては迷惑と。でもだからといって自分がいなくなればそれですむものではない。体の一部が弱っていても他に迷惑をかけたくないといって抜け出す訳には行かない。そのように教会にとって必要ない人は誰もいない。
それぞれがそれぞれの力に応じて、能力に応じて自分の務めを果たしていくことで教会は生きていく。一部分だけ見れば大した事のない働きかもしれない。しかしその少しずつの働きがなければ全体の働きはない。
自分のできることをしていこう。それが教会を生かす生き生きとさせる。それは誰かに一言声を掛けることかもしれない。微笑むことかもしれない。
教会は集まることが中心だ。集まって何かをするのは次のことだろう。兎に角安心して、喜んで集まる。それが教会だ。みんなが集まることが大事。一人で神の声を聞いて喜んでいればいいのではない。それは教会ではない。そして神は私たちを教会に集めてくれている。だから私たちは私たちの教会を作っていきたいと思う。だれもが入ってこれる、新しい人をも暖かく迎え入れることのできる、そして何よりも私たち自身が喜んでこれる集まりを作っていきたいと思う。その集まりがあってこそいろいろな働きが起きてくると思う。私たちにふさわしい教会を建てることができるように願っている。この私たちの集まりの中にキリストはおられる。