聖書:コリントの信徒への手紙一 11章17-26節
食事
タイに行っている宣教師が言っていた。「タイの教会では毎週みんなで楽しく食事をする。大きな教会には食事の時間になると教会に屋台がやってきて、その屋台から食事を買ってみんなで食べる。食事が終わる頃にはアイスクリームの屋台がやってくる。みんなで楽しく食事をするのがタイの教会の習慣である。やはり教会はそんな楽しいところだ。」
お祝い事があるとみんなで食事をするという習慣は世界中であるみたいだ。一緒に食事をするということは、それだけの繋がりがあるということであり、またそこで繋がりを深めるということにもなる。
主の晩餐
当時のコリントの教会でもみんなで食事をする習慣があったようだ。そして今で言う主の晩餐もその時にしていたらしい。普通の食事の中で主の晩餐をしていたらしい。
当時の主の晩餐は今のように礼拝の中で小さなパンと杯でするというような、決まったやり方があるというわけではなく、実際に食事をしながら、イエスの十字架の死を記念していたようだ。
その食事はみんなで持ち寄る、今で言う持ち寄り愛餐会のようなものだったらしい。その食事は、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる、そんな食事でもあった。教会でのその食事は、ただ仲良しがわいわい騒ぎながら食べるのではなく、イエスが自分たちのために血を流し死んでくれたことを思いだし、それによって自分の罪を赦されていることを心に刻む喜びの食事であった。だからこそ飲んで食べてという楽しい食事だったのだろう。
ふさわしくない
ところがパウロはそんなコリントの教会の食事について、ほめるわけにはいかない事柄がある、あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている、というのだ。それは、食事の時各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者がいるという始末だからだというのだ。
比較的金持ちの人が他の人の分もということで食事をいっぱい持ってきていたのだろう。逆に、一緒に食事をする日にも働かないといけなくて、その食事にも遅れてくる者もいたのだろう。そんな中で、片や一杯食べて飲んで満腹になっている、片や食べ物もなく空腹である、そんな状態になっているではないかというわけだ。貧しい者、遅れて来る者のことを配慮するということがないではないかとパウロはいう。あなたがたには食べたり飲んだりする家がないのか、それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのかという。教会での主の晩餐の食事は、仲間うちでわいわい騒ぐ食事とは違うということ、イエスの十字架の死を思い出し、貧しく無に等しく、ふさわしくない者を招いてくれているということを思い出す食事であるということだ。愛される価値のないあなたたちを神は愛して憐れんでくれている、なのに神に愛されているあなたがたが、教会の貧しい人たちのことを配慮しないとはどういうことか、とパウロは問いかけている。
27節には、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」とある。ふさわしくないというのは、バプテスマを受けていない者のことではないし、罪のある者のことでもないし、信仰が薄いと思っている人のことでもない。そうではなく、貧しく弱い人たちのことを愛しまた配慮する気持ちの欠けている人のことであるということになる。私はこんなに神を信じています、こんなにいろんな奉仕をしています、と思っていたとしても、教会にやってくる貧しく弱い人には知らん顔をしていたとするならば、そんな人こそがふさわしくない人ということになるのだろう。
主の晩餐
主の晩餐とは、キリストの体と血とを象徴するパンと杯によって、自分のためにイエスが死んでくれたことを思い出すことだけではなく、自分のまわりにいる人のためにも死んでくれたことを思い出すことが大事なのだろう。もし隣人のことが抜け落ち、自分だけが喜んでいるだけでは、それは結局は神の教会を見くびることであるというのだ。
貧しい者
私たちはどうなのだろうか。私たちは教会にやってくる人たちをどんな風に見ているだろうか。いつの間にか私たちも、教会に来る人たちのことを品定めするようなところが多いのかもしれない。品が良くて、人当たりがよくて、金持ちそうで、才能もありそうな人のことは大事にするけれど、よれよれの服を着て、目つきが悪くて、挨拶もあまりしない人のことは変な奴がやってきた、なんて思ってしまう。この人のためにもイエスは死なれた、という思いを、ほんのかけらでも持っているんだろうかと思うとちょっと心許ない。
主の晩餐とは、まさにそのことをもう一度吟味する時でもあるのだろう。バプテスマを受けているから主の晩餐を受けるにふさわしいなんて言えるようなものではない。自分の周りの、特に弱く貧しい人のことをだれほど配慮できているか、そのことを吟味する時でもあるのだろう。自分のために、そして周りの人のためにイエスが死んでくれたことをもう一度心に刻む時なのだろう。
告げ知らせる
そして、 11:26 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」とあるように、そうやって主の晩餐に招かれている者は、主の死を告げ知らせる者とされてもいる。ただ神の恵みを受け、それだけで終わるようなものではない。恵みを受ける者はイエスの十字架の死を告げ知らせる者でもあるということだ。恵みを受ける者は、今度は自分をささげる者へと変えられていくということだ。そうしなければいけないということではなく、恵みの力によって押し出されていくのだ。