聖書:コリントの信徒への手紙一 1章26節-2章5節
召し
仲違いしているコリントの教会の人に対して、パウロは召されたときのことを思い起こしてみなさいという。コリントの教会は四つくらいのグループがあったらしい。ただ単に気に入らないということか、あるいはいろいろな立場や考えの違いがあって主張するところが違っていたのかもしれない。教会はこうあるべきだ、と議論をしていくうちに分裂したのかもしれない。最初は建設的な話しをしていたはずなのに、次第に感情的な話しになってしまい相手のどうでもいいようなしぐさまで嫌になってしまうなんてこともある。
真剣に考えていればいるほど、こんなに考えているのに、私はこんなに一生懸命になっているのに、なのにあいつらは何だ、どうして分からないんだ、と思ってしまう。どうして何回言っても分からないんだと思ってしまう。そんなことが今でもある。
そんな仲たがいしている教会の人たちに対して、パウロは、あなたがたの召しを見てみなさい、という。どうして神が呼んでくれたのか、それを考えてみなさいという。どういう理由であなたが神から呼ばれたのか、それを考えてみなさいと言う。
パウロは「人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。」と語る。コリントの教会の人たちは中には裕福な人もいたらしいが、社会的にも経済的にも苦しい人が多かったそうだ。そして神は敢えてそんな無学な者を選んだ、とパウロはいう。無学な、無力な、無に等しいもの、身分の卑しいものや見下げられているものを神が選んだ、というのだ。
誇り
どうして神がそういう者を選んだかというと、知恵ある者に恥をかかせるため、力ある者に恥をかかせるため、地位のある者を無力なものとするため、だれひとり、神の前で誇ることがないようにするためだ、という。
世間一般では、知恵を求め、力を求め、地位を求めている。ついでにお金も。それを得るために努力している。いろいろなものを手に入れようとしている。知恵も力も地位も、あらゆるものを自分の手に持つことを目指している。ではなんのためにそれを持とうとしているのか。生きるために必要だからか。自分を守るために必要だからか。もちろん生きるために必要なものも求めるが、人はそれ以上に求めたがる。
本来生きるために必要な分があればいいはずだが、それ以上を欲しがる大きな理由は、今日の聖書のところにあるように誇るためなのかもしれない。誇るために知恵を、力を、地位を持とうとする、それが人間の有り様なのだろうか。
確かにそういうものを持っていることを人間は誇りたがる。実際コリントの教会でもそういうものを持っていることを誇るということがあったのかもしれない。
しかし神は知恵や力や地位を持っている者に恥をかかせるために、何もないものを選ばれたという。神の前で誰も誇ることがないように。
何も知らない、何も出来ない、そういう者こそ神は選ばれるのだ。自分には何にもないと知っているものこそが、そして神に頼るしかないない、それしか生きる道はないと知っている者こそが神に一番近いのだろう。
神によって私たちはイエス・キリストに結ばれている、とパウロはいう。自分の力で神を見つけたのではない。自分の力で神に近づいたのではない。ただ神によって、神の力によってそうしてくれたからなのだ。自分を磨いて鍛えて修行してイエスに結ばれるのではない。ただ神によってイエスに結ばれているのだ。
私たちはキリストを通して神との関係を持つことができている。それゆえに、私達が本当に誇るべきはキリストのみである。教会の中で誇ることがあるとすれば、それはただキリストだけだというのだ。
パウロ
パウロはここでコリントへ行ったときの事を語る。パウロは神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いなかったと語る。なぜなら、パウロはイエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリスト以外何も知るまいと心に決めていたからだという。つまり十字架につけられたキリスト以外の事は伝えなかった、そればかり伝えたということだろう。彼は、知恵にあふれた言葉を使わなかったと言っている。
説教をするときに、みんなをあっと言わせるような誰も知らないことをしゃべりたいという誘惑がある。なるほどーと思わせるような奥深い話しをしたい、どんな理屈をも超える、誰からも反論できないような有無を言わせぬ話しをしたいという誘惑がある。
しかしパウロはそんなことはしなかった。その気になればそういう話しも出来たかもしれないがしなかった。彼はただ十字架につけられたイエスを単純に語ったようだ。たとえ評判が悪くても、見向きをされなくてもそれに徹していたようだ。
パウロにとっては十字架のイエスこそ伝えたいものであり、そしてそれだけで充分だったのだろう。それ以外のものはもうどうでもいいように感じられる、それほどに十字架のイエスはパウロにとって絶大な価値のある、ものであったのだ。それさえ知っていればいい、それさえ伝えればいい、あとはもう何も要らない、そんなものだったに違いない。
ここで「十字架につけられた」キリスト、だが直訳すると「十字架につけられてしまっている」キリスト、ということば。つまり十字架につけられているままのキリスト以外の事は知らない、そして十字架につけられているままのキリストを語り伝えた、と言うのだ。
私もまた
1節に「わたしも」と出てくる。そして3節の「わたしは」も、原文では「」わたしも」という1節と同じ言葉だそうだ。
3節では「私もまた、弱さと、そして恐れと、そして多くのおののきの中にあって、あなたがたのところに行ったのである。」と語る。ではパウロと同じように弱さと恐れとおののきの中にあったのは誰か、それはその前に出てくるキリストだ。十字架につけられているキリストだ。
無力
キリストも弱さと恐れとおののきの中にあって十字架についている、ということなのだ。
十字架につけられているキリストとは、今は弱々しい姿だがやがて何もかも支配する力を秘めている仮の姿というわけではない。印籠を見せる前の水戸黄門とは違うのだ。そうではなく十字架のキリストとは、弱く惨めな全く無力なものなのだ。
それは弱さと恐れとおののきの中にある私たちのところにキリストが来ておられるということだ。神さまどうか助けて下さい、と祈りながらもやっぱりいつもびくびくしている、そんな私たちのところにイエス・キリストがいる、ということだ。
私たちの現実はどんなだろうか。失敗し挫折し、うろたえてばかりいる。表面的には元気そうに、不安もなさそうに振る舞いながら、そして悩みなんてのはなさそうに見せながら、実は内心ではいつも何かに恐れ、何かにおびえ、不安を持っているのではないか。
そして不安を吹き飛ばし、いつも元気にし、劇的に悩みを解消させてくれるものをいつも求めている。そしてそうしてくれるものを宗教に求めることがある。不安や悩みや恐れを摘み取ってほしいと願っている、そしてそれこそが本物の宗教であって、キリストにもそんなものを期待することが多いのではないか。
でも実は人間はそんな不安や悩みや恐れやおののきを摘み取れないところに持っているのではないか。真ん中に抱えているのではないか。本質的にそんなものを持っていて、それを摘み取ってしまっては人間そのものがなくなってしまうのではないかと思う。
人は皆そんなものを抱えて生きているのだろうと思う。私たちもきっと不安や悩みや恐れやおののきを抱えて生きているのだろうと思う。しかしそんな私たちのところにイエスは来られているのだ。
神は不安を抱き、悩み恐れを持っているからといって見捨ててはいない。そんな私たちではある、しかし私たちも神の手の中にあるのだ、神の支配の中にあるのだ。
パウロも何度もそんなことを言っている。Uコリント7:5 「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです。」
しかしそこでそんな恐れを持ち不安な状況の中でパウロは十字架のイエスを見上げている。3「私もまた、弱さと、そして恐れと、そして多くのおののきの中にあって、あなたがたのところに行ったのである。」パウロは弱さと恐れとおののきの中にあるイエスを見ている。自分と同じところに自分の隣に来て下さっているイエスを見ているのだ。
パウロにとって十字架のイエスこそが力となった。このイエスを知ることがパウロの力の源だったのだ。そしてこの十字架のイエスのことだけを語り伝えた。弱さと恐れとおののきの中にイエス・キリストが来られている、そのことだけを伝えた。
キリストは高いところから私を見下ろしているのではない。人間の苦しみや悲しみや嘆きとはかけはなれた清い所にいるのでもない。
イエスは私たちのところに来られた。いろんなことに恐れ、不安で不安で夜も眠れなくなり、すっかり弱り果ててしまっている、そこでかろうじて生きているこの私の隣りに、同じように弱い果てているイエスがいるというのだ。十字架につけられているイエスがいるというのだ。弱り果て疲れ果てている私の隣り、もうそれ以上落ちようもない深みに立っているのだ。
私たちの全てを無くしたときにも、自信もなくし、平安もなくし、力も無くしたときにも、そこに十字架のイエスはいるのだ。イエスはそんな風に私たちの下から私たちを支えてくれている。