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礼拝メッセージより
説教題:「十字架の言葉による一致」 2003年7月6日
聖書:コリントの信徒への手紙一 1章10-25節
兄弟たち
教会の中で仲たがいが起こっている。実際そんな悲しい現実がある。あるいはどこの教会にも当てはまることかもしれない。
お前たちはなにをやっているんだ、と言いたくなりそうな出来事なのではないか。パウロはコリント教会の父と言われるような立場である。パウロにとってもそうだったのではないか。しかしパウロは彼らに対して、「兄弟たち」と呼びかける。教会の中で仲たがいしている者たちに向かって「兄弟たち」と呼びかける。もうこれだけでパウロの言おうとしていることは語り尽くされているのかもしれない。「あなた達は兄弟なんだ、兄弟としてひとつの教会に神から呼ばれ、集められている者同志なのだ」と。
パウロは教会の中に争いがあるからといって、それも自分が伝道したことからできた教会が仲たがいをしていることを知って、しかしその人たちを叱りつけてやめさせようとしているわけではない。どなって恐れさせてやめさせようとはしていない。人間はよくそうする。力でもって恐怖を与えて相手をねじ伏せようとする。親が子どもに向かってもよくする。でもそういうことは最初はうまく行っても、いずれは失敗するみたいだが。
しかしパウロはそうはしない。パウロは「兄弟たち」と呼びかけ、彼らが心から反省するように、自分で納得して間違いに気付くように勧めている。私の兄弟たちよと語り掛ける。パウロにとって彼らは兄弟なのだ。福音を伝えたもの、伝えられたものではある、しかしやっぱり兄弟なのだ。教えたものと教えられたものでもある、でもやっぱり兄弟なのだ。世間では教えたものはいつまで経っても先生である。でも教会では、ある時は先生となったとしても、ある時は生徒になったとしてもやはり兄弟なのだ。兄弟でありつつ先生となり生徒となるのだろう。教会の中ではだれもが兄弟姉妹なのだ。きっと誰もが兄弟なのだ。バプテスマを授けたものと授けられたものも兄弟なのだ。
どんな分派か
しかしその兄弟であるもの同士が仲たがいをしてしまっている。
パウロに・・主として異邦人からなる分派。パウロはキリスト者の自由の福音と律法の終わりとを説いていた。この分派に属する者たちは自由のみを強調して、自分勝手になにやっても構わないと主張していたと思われる。愛することを忘れ、自分のやりたいようにしていたのだろう。
アポロに・・彼はパウロがコリントを去った後、入れ替わりに来た教師。使徒言行録18章24節〔さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。〕に登場する。パウロは話しがうまくなかったらしく、説教もとつとつとしたものだったらしい。それにひきかえアポロは人々を魅了するような派手な説教をしたようだ。彼の出身地であるアレクサンドリアは当時知的活動の中心地だったそうで、学者達はこの町で聖書の比喩的解釈を学問的に行い、単純な聖書の個所から、深い意味を探り出そうとしていたようだ。それもかなり無理してこじつけるようなこともあったらしい。とにかくそういう土地の出身であるアポロも知的な魅力的な説教をしたのだろう。
ケファに・・ケファはペトロのユダヤ名。この分派はユダヤ人であっただろう。彼らはきっと今でもユダヤの律法を守るべきであると主張して神の恵みを軽視していたのであろう。
キリストに・・あまり定かではないらしいが、自分達だけが正しいと主張するグループがあったのかもしれない。他の争っているグループを断罪して、自分達だけが本当のキリスト者だというふうに考えていたのかもしれない。あるいは自分達にはキリストが直接語り掛けるといったような熱狂主義的なグループだったのかもしれない。
とにかくコリントの教会にはそんなふうに4つのグループがあった。指導的な立場の名を借りて自分の主義主張を振りかざして言い争っていたようだ。しかしおかしなことに当のパウロとアポロとケファとキリストが個人的に争っているわけではない。パウロはアポロの働きを認めていることがこの手紙の中にも出てくる。なのに、自分達はパウロ派だ、アポロ派だと争っているのだ。いろんなスポーツで、違うチームのファン同士がけんかすることがある。でも選手同士は仲が良かったりするのと似ている状況である。
十字架とバプテスマ
パウロはそうやって争っている者たちに向かって語り掛ける。1:13 「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」
教会の中で仲たがいし争うのは、キリストをいくつにも分けてしまうことと同じである、ということだ。
教会は人が何かの目的のために集まったところではない、と言うことだろう。社会の中にはいろいろな集まりがある。それぞれの目的のために集まっている。その目的に賛同して、それは実行したいと思い集まってくる。しかし、その目的のためにこうするべきだ、ああするべきだ、と意見が食い違うことがある。時にはどうしてもぶつかってしまい、別れ別れになってしまうこともあるだろう。ひとつの目的のためにもいろいろな手段が考えられるからだ。
でも教会はそんな集まりではない。何かをするために、そして自分もそれに賛同して集まったのではない。神によって集められたのだ。神に呼ばれてそれに応えてきた者たちの集まりだ。キリストの十字架によって罪を赦されて神の子とされた者たちの集まりだ。だからその者たちは神の子として兄弟姉妹なのだ。
ただの集まりならば仲たがいしてもどうってこともない。気に入らなくなればやめることもできる。でも同じ家に生まれた兄弟姉妹はそう簡単にはいかない。その関係を解消することはできない。
そういった面からパウロは、あなたたちは兄弟なのだと言っているのだろうと思う。家族のように暖かい関係ということもあるかもしれないが、それよりも、家族のように兄弟姉妹のように何があっても、どんなことがあっても面倒を見続ける、どこまでも心配する、どんなに仲違いしても切れない関係として兄弟、という言い方をしているのだろうと思う。
私たちはキリストの名によって集められたものだ。バプテスマを受けたものも、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けた。神によって集められたのだ。ひとつの家族の中に生まれさせられたようなものだ。だからこそ兄弟姉妹である。人間的な上下関係はない。上にいるのは神のみなのだ。誰か偉い人の下に集まったのではないのだ。教会では誰も偉くはないのだ。教会の先生はキリストだけなのだ。
パウロはこの部分を悲しみを持って書いているような気がする。怒りをもって叱っているのではなく、仲たがいし争っている現状を悲しんでいるような気がする。「わたしは誰それに、と言い合っているとのことです」と書いている時、パウロは涙ながらに書いているような気がする。どうしてこんなことになってしまっているのか。
仲違い
どうして仲たがいしてしまうのか、争ってしまうのか。
違いを認められない。少しの違いのために言い争う。小さな違いを見つけ出してはその者を排除しようとすることもある。違いを認め合うことが下手なのかもしれない。
違っていてもいいことをことさら問題にしてしまうようなこともある。今の日本の社会でも普通でないこと、周りと違うことが問題になることが多い。事細かなことまで同じかどうかを気にするようなことがある。そして違うものに対して、どうして違うのだ、どうして同じにしないのだと思う。もちろん違ってはいけないこともあるだろうが、必要のないことまで同じにしとかないといけないような所がある。
根本が同じであるならばいろいろな違いがあってもいいはずだ。ある人は「キリストのほか自由」と言っている。つまりキリストだけは譲れない、しかしその他は自由である、というのだ。
今の教会はどうなのだろうか。認め合っているだろうか。私はどこそこ教会のものです、という時他の教会より自分達の教会の方が優れているように思ったりしないだろうか。
あるいは教会の中ではどうなのだろうか。確かに仲たがいをしていないが、実は同じような人間ばかり、なんてことにもなりかねない。違う種類の人間を排除してしまっていて仲がいい、といっていても始まらない。いろいろな人間がいてこそ教会だ。そして違いを認めつつただキリストによって結びついている、互いに尊重しあっている、それこそが教会だろうと思う。違いを認めるということは大変なことだ。自然にできるというようなものではない。意識しないといけないことなのだろう。
教会が仲たがいしていては伝道も何もできないだろう。お互いを大事にしていないならば新しく来た人も自分を大事にしてくれるとは思わないだろう。そして神がその人を大事にしているとも思わないだろう。
パウロはいろいろなコリント教会の中のいろいろな問題がある中で一番最初にこの問題について答えている。これこそが教会にとって、教会が生きるか死ぬかの大問題だからだろうと思う。だから是非互いを認め尊重しあいキリストによって呼び集められたことを思いつつ教会を形作るように勧めているのだ。
一致
教会の一致は、同じ服を着ることでも、同じ顔をすることでも、同じ考えになることでもない。ただキリストの下に集まることなのだろう。そしてこのキリストに神に共に聴くことなのだろう。そしてそのことを大切に思うこと、それが教会における一致なのだと思う。