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礼拝メッセージより
説教題:「聖霊の住まい」 2003年7月20日
聖書:コリントの信徒への手紙一 6章12-20節
信号
日本では車は左側を走っている。道に線を引いただけでよくうまく行っているなと思うときがある。そんなに広くもない道の両側をうまく走っているもんだと思う。みんなが左側を走ると決めてやっているからうまくいくけど、それがなくて、あなたはどっちを走りますか、なんていちいち確かめていたらとても走れない。
信号も赤で止まるようにということをみんなが守っているからうまく行っているが、それも守らなくなったら交差点に来るたびに他の車がないかどうか確かめながら行かないといけなくなってしまうだろう。時々うるさいバイクで信号無視をしていく者がいるけれども、みんながあれをやり始めたらきっと収拾がつかなくなってしまうだろう。
自由
コリントの教会では、「わたしには、すべてのことが許されている」と言う人たちがいたようだ。私たちの全ての罪は赦されている。そして全てのことは許されている。と言っていたのだろう。
確かにその通り。何をしたっていいというときにどんなことをするのか。コリントの教会の人たちは、娼婦と関係を持っていたという。何をしてもいいんだから悪いことだってしていいのだ、それも許されていると言っていたようだ。何をしても許されるんだから、自分の思いのまま、欲望のままにしていいのだということなのだろう。
すべてのことは許されているということと、自分の勝手気ままにしていいということとは違うだろう。
自分の思いのままに、欲望のままにどんなことでも出来るということになったら何をするだろうかと思う。独裁者になれたら何をするだろうか。そんな立場になったら、誰でもが自分の欲望のままにしたいという気持ちになるのではないか。
しかしそうされたら周りの者はたまったものではない。国の独裁者だけではなく、小さな集まりの中、家でも教会でもいろんなグループの中でも、独裁者が現れるとその周りの者は大きな迷惑を被ることになる。
何をしても許される、何をしてもいい、ということでみんなが自分勝手なことをしたらたちまち滅茶苦茶なことになる。それはまるで、道が混んで来ると、右側を通って行ったり、信号も無視して行くようなものだ。俺が速く行きたいから行かせろ、と言って勝手なことをするようなものだろう。みんなが同じ事を言い出すとたちまち大渋滞になってしまって身動き取れなくなってしまうだろう。みんなが速く行きたいと言って自分勝手を始めると全部の車が動けなくなってしまって、誰もどこにもいけなくなってしまうだろう。
神殿
あなた方は、代価を払って買い取られた神の神殿なんだという。聖霊が宿ってくださる神殿なのだという。聖霊が、神の霊が、神自身が私たち自身の中に来てくれている、だからそのように生きなさい、聖霊の宿る神殿らしく生きなさいというのだ。
代価を払って買い取られた、と言うことは、その人は昔の主人から新しい主人へと買い取られた奴隷であるということだ。かつては罪の奴隷であった者が、今度は神によって買い取られて神の奴隷となったというのだ。もちろん神は私たちをがんじがらめに縛り付けるような主人ではない。それどころか私たちに自由を与えてくれる、そんな主人である。けれどもその自由をどういう風に使うかというのが問題である。
自由の使い方
私たちは自由を自分が何でもできる、という風に使うことも出来る。ただ自分のために、自分のためだけに自分の欲望のままにつかうことも出来る。コリントの教会の人たちはきっとそんな使い方をしていたのだろう。ただ自分の欲求を満たすことができればそれでいい、というような使い方をするならば、やがてはすべての人間関係は破綻してしまうだろう。自分一人だけ信号無視してもどうってことはないけれども、みんながやりだしたら交差点はいつも車で詰まってしまうか、しょっちゅう事故が起きてしまって、余計に遅くなってしまう。自分勝手に自分の欲望を満たす、そんな風に自分のために自由を使っていては、やがてはみんな破綻してしまうだろう。独裁者みたいに力づくで周りを従わせることはできるのかもしれないが、いつもいつも脅かしておく事自体も大変な労力だろう。
一方自由を自分以外のために使うという仕方もある。自分のためではなく、誰かのために自由を使うこともできる。人はプライドをいっぱい持っていて、なかなか誰かのためにということができないことが多い。誰かのことを真剣に思うことも難しい。けれども誰かのために自分が役立つことができるということは、それは何ものにも代え難い喜びがある。人が生きる目的は、誰かの役に立つこと、というような事をよく聞く。誰かのために生きることが本当の人間の基本的な生き方で、そこに喜びと満足があるのだろう。自分の欲望を満足させるという短絡的な生き方よりも、誰かの役に立つという面倒なことを通して、人は喜びを得られるのだろう。
速く行きたいと言って右側を通ったり信号を無視したりしては余計に遅くなるだけなのだ。みんなでルールを守っていくことが結局は速く行くための方法なのだ。
自分のためばかり、自分のことばかり、自分の欲望を満たすことばかりを考えていては、結局は満足することも喜びを得ることもないままに終わってしまうことになるのだろう。自分のためよりも誰かのため、そして神のため、神の栄光を現すために自分が何かをすること、それが結局は自分を満足させることにつながる。
神から与えられた自由を自分のために使うのではなく、誰かのため、また神のために使う、自由を愛するために使う、それが私たちが喜びを持って生きるための方法なのだろう。
許されている
「わたしには、すべてのことが許されている」、コリントの教会の人たちにとっては、それはみだらな行為をすることに対する免罪符のようなものだったようだ。すべてのことが許されている、それは自分がどんな悪いことをしても大丈夫なのだという自分を正当化する言葉でもあったのだろう。
けれども本当は、すべてのことが許されているというのは、隣人のためにはあらゆる事が出来る、あるいはまた神のためにはどんなことでもできるという意味合いでの、すべてのことが許されているということだったのではないかと思う。
免罪符を持っているからどんな悪いことでも出来る、というのではなく、誰かのために、神のためにどんな大胆なことでもできるという事なのだと思う。
神殿
あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であるという。私たちは聖霊の宿る神殿なのだというのだ。神の霊が、神の力が私たちの中に宿っている、それは、私たちの中にも、隣人のために、神のために大胆に何でもできる力を神が注いでくれているということだろう。聖霊が宿るというのは、何か神秘的な減少が起こることとか、あるいは病気を治したり異言を語ったりといったような普段起こり得ないようなことを起こせることというよりも、誰かの為に何かをする力を持つこと、隣人のために生きる勇気を持つこと、そして隣人を愛する思いを持つこと、それが聖霊が宿るということなのだろう。
私たちはそんな聖霊の宿る神殿であるとパウロは言う。だからその神殿にふさわしく生きなさいというのだ。