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礼拝メッセージより
説教題:「国際性」 2003年6月29日
聖書:箴言 8章31節、27章1節
外国の教訓
箴言には、30章にアグル、31章にレムエルの母の言葉がある。そしてこのアグル、レムエルはイスラエル人ではないと考えられているそうだ。アラビア系の名前なのだそうだ。
そして27章1節の言葉も、エジプトの「アメンエムオペトの教訓」と呼ばれるエジプトの知恵ととても似ているそうだ。そこには、
明日を恐れて夜を過ごすな。夜明けには、明日はいかなるものに似るか。
明日がいかなるものかは人々にはわからず。
と書かれているそうだ。箴言がこのエジプトの「アメネムオペトの教訓」を真似たのではないかと考えられているそうだ。
他にも、「虐げられた者から奪うことのないように心せよ。腕折られたる者を抑圧することのないようにも。」という言葉がある。これは箴言22:22の「弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。貧しい人を城門で踏みにじってはならない」に対応するようだ。
但し、箴言には続きがあって、22:23に「主は彼らに代わって争い、彼らの命を奪う者の命を、奪われるであろう」となっている。弱く貧しい者の尊厳と権利を保障することを、箴言はエジプトの教訓から引用しているが、箴言ではそれが神の意志であり、神自身が弱い者を守っているからだと説明しているということになる。
全世界の知恵
知恵は聖書だけが持っているわけではない。人間としてどう生きていくかということは、どう生きることがいいのか、それを誰もが考えてきた。みんな悩んできた。そしていろんな所に人生の知恵はあるらしい。教会だけに真理があり、教会の外に真理がないわけではない。キリスト教だけが真理であって、それ以外はすべて間違いというわけではない。もしそうだったら話しは簡単だが。 かつての宣教師は、キリスト教だけが正しくて他の宗教は間違いなのだというようなことを言っていたそうだ。自分たちだけが正しくて、他は間違いなのだというような思いが今でもあるのかもしれない。自分たちの人生は正しいが、教会の外の人生は間違った人生なのだというような言い方をすることもある。
この前のイラク戦争の時に、アメリカ軍には約500名に一人の割合で充分牧師が置かれ、礼拝を行ったそうだ。その礼拝の中で牧師はこういったらしい。「毎日が戦争です。戦闘を目前にして、神の法をいかにして受け止め、理解していけばよいのか今日はお話ししましょう。命令という形で我々は人を殺します。ただ、ここのイラク兵に対する憎しみや怒りで殺すわけではありません。全ての人の理想のために殺すのです。だからこの戦争において人を殺すことは宗教上の観点から正当化されるとわたしは思います。」そう言って説教したそうだ。
箴言は外国にある真理の教えを引用している。つまり外国の正しい教えを学んでいるわけだ。外からの教えにも耳を傾けている。自分の国だけ、自分の民族だけ、自分の宗教だけが正しいと思い、自分たちだけが優れていると思っていてはそんなことはできないだろう。
自分たちの中だけに真理がある、自分たちの方が他の者よりも正しいと思いたいという気持ちがあるのは致し方ないのかもしれない。自分は正しいと思うからこそ信じているわけで、ここがそれほど正しいかどうかはっきりしないなんてことは思いたくもない。もしかすると間違っているかもしれない、なんて思いたくはないだろう。これこそが真理だと思っているから信じているわけだ。けれどもだからといって自分たちは絶対に正しい、と思うことはとても危険なことであり、そこから周りを裁き、見下すことにつながっていくのだろうと思う。
日本でも、愛国心を持つように教育しなければと言われている。自分の国に誇りと自信を持つようにということだろうか。日本はすばらしい国だ、日本は優れた国なんだ、と言いたいかのようだ。そしていかに自分の国が、自分の国民が特別に優れているか、ということを殊更に協調しているように聞こえる。でもそれは裏返して言えば、他の国は日本より劣っているダメな国で、他の民族はダメな民族なのだという気持ちがあるということなのではないかと思う。
在日韓国人や朝鮮人の人たちのことを日本社会は同じ社会の一員としてなかなか認めようとしないけれども、その背景にはあいつらは自分たちとは違う、劣った、汚れた民族というような気持ちがあるのだと思う。他人事のように言っているが、僕自身もそんな思いを拭いきれないところがある。子どもの頃から、周りの大人は、あそこは朝鮮だ、というような少し変な者であるかのような言い方をしていた。そしてそんな声を聞いてきたためか、自分の中にも彼らは違うのだという気持ちがあって拭いきれない。去年ワールドカップがあったが、日本は決勝トーナメントに進出してベスト16に入った。でも韓国はその上を行ってベスト4になった。そうするとなんだか素直に喜べない気持ちがある。日本よりも上に行くのが気に入らない気持ちがどこかにある。自分たちよりは少し劣っているような全く根拠のない気持ちがどうしても残っている。
反対に白人に対しては羨望のまなざし、畏れ多いような気持ちがある。小学生の低学年のときだったか、近くのフェリー乗り場に外人がいる、といううわさがあって見に行ったことがあった。その時初めて白人を見たが、その人がパンを食べているのを何人もの人が周りで取り囲んで見ていた記憶がある。そんな変な思いが自分の中にはある。でもそれっていうのは今の日本の社会の状況と同じだなと思う。アメリカの言うことには追随して、朝鮮の人を悪者と思う気持ちは日本中に広まっているのかもしれない。
けれどもそうやって自分たちこそ一番だと思い、自分たちのことしか見ない、自分たちのことしか考えない、そして周りを見下げていくことは、やがては自分たちを孤立させて窮地に立たせることにつながっていくのだろうと思う。
箴言はエジプトの知識を吸収していく。そして世界中何処にでも通じる知恵を集めている。そんな世界中に通じる真理の中に、神との大事な関係を見いだしているようだ。
世界の中で生きていかねばならないときに、日本が他の国よりどれほど優れているかなんてことを強調しても仕方ない。どうやって一緒にやっていくのかということを考えないといけないはずだ。
社会の中で生きていくときに、教会がどれほど優れているか正しいかを威張っていても仕方ないことだろう。この社会の中でどう一緒に生きていくか、この社会にどう仕えていくかが大事なことだろう。
そんな中で箴言は、貧しい人のことを大事にするように、その人たちを大事にしながら一緒に生きていくように、という。
自分を誇り威張っていきたいという欲望がある。けれどもそれをやっていては豊かな人生とはならないということは世界中どこでも通じる知恵なのだ。弱い者いじめをしていては結局は自分自身をも滅ぼすことになるのかもしれない。世界中のあらゆる人を大事にし、一緒に生きていくようにと箴言は語りかけているのだろう。まずは自分のすぐ隣りにいる人から、そして地の果てにいる人まで、一緒に生きていくことを大事にしていくことが大切なのだ。
クリスチャンになったから自然に世界中の人を大事にするようになる、なんてことはない。大事にすると言う意志を持っていくこと、貧しく弱い人を特に大事にするという気持ちをもつことが大切なのだと思う。そしてそれが結局は自分を大事にすることであり、人生の喜びでもあるのだと思う。