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礼拝メッセージより
説教題:「信仰と疑い」 2003年6月22日
聖書:箴言 30章1-4節
アグル
アグルという人の言葉が箴言に書かれている。
この人は自分は粗野で人間としての分別もないという。知恵を教えられたこともなく、聖なる方を知ることもできないという。自分は大した人間ではないから神が分からないというわけだ。
そこで質問をする。天に昇り、また降った者は誰か、その手の内に風を集め、その衣に水を包む者は誰か、地の果てを定めた者は誰か。答えは神、ということになるのだろう。そんなことは誰でも知っていることだ。全てを支配しているのは神なのだ、ということは誰でも知っていることだ。しかしここでアグルはそれを敢えて問いかけている。当たり前のことをここで問いかけている。
あるいはこれは皮肉を言っているのかもしれない。それは神だ、とすぐに答える者に向かって、あなたはそれほど簡単に分かっているのか、と問いかけている、本当に分かっているのかと問いかけている言葉なのかもしれない。
答え
それは神です、テストならばそう答えを書けば100点を貰える。けれど、その答えを知っているということと、それが分かっているのとは結構違う。
神がいつも共にいる、と聖書は語る。そんなことは教会の中で何回も聞かされて、あるいは自分でも言ったりしてよく知っているつもりでいる。けれどもそれがどれほど分かっているかというと本当は結構心許ない。
この前の地震の時に、いろんなことが一片に起こって一体どうなるのか、どうしたらいいのか、心配で仕方ない時に、ある教会の人から電話がかかってきた。そしてその人は、神さまがついているから大丈夫よ、と言った。それを聞いたとき、そうだなと思えてちょっと元気になった。神が共にいる、と何回も口にしていたけれども、案外本当には分かってない時が多いのかもしれない、と思った。
正しい者がどうして苦労するのか、よく分からない。苦労したらいけないではないかと思ってしまう。どうしてこんなことが起こるのかと思ってしまう。
マニュアル
高度経済成長、所得倍増計画なんていう言葉があった。大量生産、大量消費という時代があった。同じものを大量に生産するために、流れ作業で自分の持ち分をいかに間違いなく速くするかということが求められていた。そして誰でもその仕事を速くぬかりなくするためということだろうか、マニュアルが作られるようになった。確かに大量に生産できるようになって安く出来るようになった。けれどもだんだんとマニュアル通りにしかできない、というような、あるいはマニュアル通りにやっておけばそれでいいじゃないか、マニュアル通りにやっているんだから何が悪い、というような雰囲気が出てきたような気がする。仕事を抜かりなく誰でもできるようにというためにはマニュアルはとても優れている方法だと思う。けれども意味も分からずとにかくその通りにしておかないといけない、その通りにしかできない、となるとそれはおかしなことだ。
ハンバーガーやさんにいくと人が変わってもいつも同じ口調で注文を聞かれるというような話はよく聞く。ハンバーガー屋さんでなくても気になることがある。お釣りをくれるときによく「お確かめください」と言われる。お釣りが378円とかいうような時に確かめてくださいと言われるのは分かる気がするが、お釣りが100円玉1個とか、10円玉1個の時にまでも、お確かめください、なんて言われると、一体何を殊更確かめるのか、と思ってしまう。
マニュアル通りにやることで済むこともある。けれども何もかもマニュアル通りにやればいい、というわけではない。特に信仰とはマニュアルを覚えてその通りにしても済まないことが多い。人生とはそれほど単純ではない。決まったことを決まったとおりにすればいいと言われた方が安心できるのかもしれない。けれどもその中に収まりきれないことが人生にはいっぱいある。
いい学校へ行くことがいい会社へ入り、いい結婚をするための方法であり、それが幸せになる道である、というようなマニュアルがあるように思う。だから小さいときから塾に通わせている親が多い。けれども人生がそのままマニュアル通りにいくわけがないし、そんなマニュアル通りにいく人生なんてきっとつまらないだろうと思うし、それが幸せかどうかははなはだ疑問だ。
思うようにいかない、人間の計算通りにいかない、それが人生だ。事故も病気も災難もある、でもそれが人生だ。それをなくすことができない、それをも抱えて生きていかねばならない。それはとてもしんどいことでもある。
30年位牧師をして忙しく働いていた人がいた。その人は具合が悪くなってもゆっくり病院にいく時間もなく、薬を飲んでしのいでいた。けれどもその人が若年性老人性痴呆症になった。最初は頭痛と物忘れがひどくなった、という程度のことだと思っていたのが、だんだんと調子がわるくなり、優しかったのに奥さんに酷い言葉をかけたり暴力を振るったり、徘徊をするようになったりするようになった。もう少しして牧師を引退したら、夫婦でキャンピングカーでも借りて、ゆっくり日本中を回ろうかと話していたのに、だんだんと人格も変わってしまっていったようだったそうだ。
これまで神さまのために一生懸命に働いてきたのに、どうしてこんなことになるのか、とこの奥さんは思ったそうだ。どうしてこんなことが起こるのだろうか。本当に分からない。そんなことは起こってはいけないではないか。もっとずるく悪いことをしてきた人ならそうなっても仕方ないけれど、どうして神さまのために働いてきたひとがこんなことになるのかと思う。
こういうことに対して私たちは一体何が言えるのだろうか。これも神さまの計画なのだとか、神の業が現れるため、なんて言うことはできるのだろうか。分からない、どうしてだとしか言えないと思う。それをそのまま神に聞いていく、訴えていく、嘆いていくしかないように思う。
この奥さんは、どうして私を見捨てたのか、というような詩編の言葉に一番慰められたそうだ。ただそこにすがっていた、同じように神に嘆いてきた人がいたこと、ただそこにすがってきたようだ。そして同じように神に嘆き訴えてきたようだ。
呪文
聖書も味わって読まないと意味が薄れてしまう。するめを食べるようなものかな。噛めば噛むほど味が出る。何だろう、どうしてだろう、何を言っているんだろうと立ち止まることでその言葉の持つ意味が分かってくることが多い。そんなこともなく、ただただ聖書だから信じればよいとか、覚えていればよいとかいうことではないだろう。その言葉をしっかりと聞くこと、分からないけど信じるというよりも、この言葉は何を言おうとしているのかということを考えながら聞くことが大事なのだろう。
主の祈りを礼拝の中で毎週祈っているが、この主の祈りもただ意味も考えずに唱えているとしても意味はない。祈りを噛みしめて祈らないと意味はないと思う。暗記している言葉をただ唱えているとしたら、それは祈りではなく呪文かなにかになってしまう。だから主の祈りをあまりすらすら祈ってはいけない、と思う。
信仰
信仰とは、神を信じるとは、聖書にあることをとにかく頭の中に詰め込むことではない。とにかく疑問を挟まず信じることでもない。無理矢理にでも本当だと思い込むことでもない。
神を信じるとは、疑問があるときも、嘆くときも、悲しむときも、神に向かって語り続けることなのだと思う。疑問を神に聞いていくこと、嘆きを神にぶつけること、どうしてこんなことが起こるのか、と神に問いつめること、そしてその答えを待つ、それが神を信じるということなのだろうと思う。
分からない
何かを聞かれたときに、分からないというのは恥ずかしいことだと思ってしまう。
分からないことがあるということは何だかとても悪いことのように思っている。知らないことがあるということはマイナスであるかのような気がしている。知るべきことをまだ知っていないというような。でも本当はそうではないのだろう。分からないことがいっぱいあるからこそ、それを知ろうと思う。分からないから聞こうと思う。分からないから聖書を読み、祈るのだろう。
疑問を挟むことは決して悪いことではないだろう。疑問を挟むような出来事の中で人は苦しんでいるのかもしれない。その疑問を一緒に悩むこと、それが私たちがすべきことなのだと思う。
そんなことを言うものではありません、ただ信じなさい、ということでは人は苦しみは癒されない。共に泣く、とは一緒に悩み苦しむことでもあるのだろう。なんでそんなこと聞くの、というような新しく来た人のそんな質問の中に宝が隠されているのだろうと思う。そこから一緒に宝を探して生きたいと思う。