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礼拝メッセージより
説教題:「思い込みの愚かさ」 2003年6月15日
聖書:箴言 26章1-12節
愚か者
愚か者ってどんな者?無知な者?何を知らないから愚か者なのか。
愚か者も知っていることもある。全く何も知らないと言うわけではない。7,9節によると愚か者もことわざを口にすると書いている。愚か者だってことわざを知っている。案外いろんなことをよく知っているという人なのかもしれない。案外物知りかもしれない。物知りだから賢者かというとそうとは限らない。
よく苦しんでいる人に対して、これはこうだからこうなったのだとか、苦しんでいるのはあなただけではないのだから、もっと苦しい人だっているんだから、というようなことを言ってしまう。確かにその通り、言っていることは真実だろう。けれどもだからと言ってそれが相手のためになるとは限らない。苦しいことを分かって欲しい時に、その苦しみの原因を聴かされてもうれしくもなんともない。まして、もっと苦しい人がいる、あなたの苦しみなんて何ほどのものか、なんて言われたら余計に苦しくなってしまう。
いくら知識を持っていても、ことわざをいっぱい知っていても、使い方を誤ると何の役にも立たない。それどこから逆に人を傷つけてしまうことだってある。物知りが物知り顔で話しをするのを聞くことほどいやなことはない。
愚か者とは、ものを知らない人のことではなく、自分はいろんなことを知っていると思っているひとのことらしい。いろんなことをよく知っていて、愚か者ではない、と思っている人、どうもその人こそが愚か者であるらしい。
罪
教会に来るといろんな知識は増える。聖書に関する知識も、教会に関する知識も増える。そして長く来ていると自分は賢くなったような気がする。あるいは賢くならなければならないような気になる。そして少しずつ清い人間になっている、あるいは清い人間にならなくてはいけないと思うことがある。
少しずつ上に向かって行く、少しずつ上昇していく、そうなっているはず、そうなるべき、と思うことがある。愚か者から離れて少しずつ偉くなっていく、罪からも少しずつ離れていくべきである、そんな思いがあるのではないか。
でも多分本当はそうではなく、教会に来ると余計に自分の愚かさ、自分の罪に気付いていくのだろうと思う。教会に来て成長するということは、自分の罪や愚かさをなくしていくことではなく、そうできればすごいことではあるが、それよりも自分の罪や愚かさに気付いていく、自分がどれほど愚かであり、罪深いものであるか、それをどんどん知っていくこと、それが教会での成長なのだと思う。
ヨハネによる福音書の8章に姦淫の罪を犯した女を巡る論争がある。
8:1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
8:2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
8:6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
8:9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
8:10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
8:11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕
現場を押さえた者たちは、その女性の罪を見せつけてどうするのかとイエスに問いつめる。この罪ある女をどうするのだ、赦すのかそれとも石打の刑に処するのかと。イエスはそれに対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言ったという。
教会の中でも、人の罪を見つけて、これは罪だ罪だ、どうするのだと言うことがある。あの人はあんなことをしていると。けれどもそんな時、私たちはいつの間にか自分の罪をどこかに棚上げしている。まるで自分だけは罪がまるでない、清い人間になったかのようになって、この罪をどうすればいいのか、なんて騒ぎ立ててしまう。
最近娘の小学校でも女の子同士がけんかしたということでちょっと騒ぎになっている。親は自分の娘が呼び出されていじめられた、と思っているようだが、その子もいろんな嫌がらせをしていたらしい。なのに自分の子どもがやられたとなると、どうしてそんなことが起こったかなんてことは全然考えられないらしい。
自分に非がないと思うから周りを攻め、非難する。自分に罪がないと思うから、まわりの人の罪を殊更に責め立てる。人の罪が気になるとき、人の間違いが気になるとき、そこで私たちが聞いていかねばならないことばは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」というイエスの言葉だろう。そんな自分の罪をいつも心に抱えていく、それが私たちの目指す姿なのだと思う。教会に来て成長するとしたら、そんな人間になっていくことなのだと思う。
しかしそれはとても辛くしんどいことだ。自分の罪や自分の間違いをいつも抱えていくことはとても大変なことだ。けれどもイエスはそんな私たちと共に生きてくれている。そんな私たちを支えてくれている。イエスはそんな私たちのために十字架で死んでくれた。私たちの罪を全部背負ってくれたのだ。
私たちの罪は赦されている。けれども私たちが罪のない、罪とは無縁な人間になったわけではない。相変わらず罪にどっぷり浸かったような人間だ。けれどもやはり赦されている。だから罪のない人間のように威張って偉そうに生きるのではなく、罪のある人間として、けれども赦されている人間として謙虚に喜びを持って生きる、それが教会人としての生き方なのだと思う。
間違いや罪をいっぱい抱えてみんな生きている。そんな人たちが教会に来る時、私たちはえてしてそれは間違っている、そんなことではダメだ、ああしないといけない、こうすべきだ、と言うことばかりを言い過ぎるのではないかと思う。罪人に向かって石を投げてばかりかもしれないと思う。なんだか自分はすでに立派な教会人であるかのような気になって、後の者を指導してやろうというような気になっているのかもしれない。そうしたら、それこそが愚か者なのだろう。
ルカによる福音書18章9節以下に、ファリサイ派の人と徴税人のたとえがある。
18:9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。
18:10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
18:11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。
18:12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
18:13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』
18:14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
教会に来ているから清く立派なわけではい。邪悪な世の中に住んでいる者とは違うのだ、と思っているとしたら、それは高ぶっている者ということだろう。教会で一番立派なのは、このファリサイ派の人のような気になっているのではないか。こんな人になることを目指しているのではないか。けれども本当は教会で一番立派なのは、自分の罪に悩み苦しんでいる徴税人のような人なのだ。そんな者を神は義としてくれるのだ。