前 へ
礼拝メッセージの目次
次 へ
礼拝メッセージより
説教題:「赦し」 2003年6月8日
聖書:箴言 25章16-22節
目には目を?
「目には目を、歯には歯を」という有名な言葉がある。誰かに何かをされたら、同じことで仕返しをしなければならない、仕返しをする権利があるのだ、というような意味で使われていることが多いように思う。
2001年9月11日にアメリカで同時多発テロが発生した。そしてアメリカではテロリストたちへ報復する、仕返しをするのは当然だと考える人たちがほとんどであったようだ。アフガニスタンへ軍隊を送り、今度はイラク戦争を起こした。やられたらやり返す、それは当然のことである、という考えがアメリカを支配しているようだ。そしてアメリカの教会の多くもそんな考え方であったそうだ。南部バプテスト連盟もイラク戦争を支持していると聞く。やられたらやり返す、悪い奴らは征伐して当然、それはアメリカだけではなく世界中のほとんど誰もが持っている感情でもあるのだろう。それが人間の持つ自然な感情なのかもしれないとさえ思う。
そんな、報復して当然、その権利はあるのだというような時によく使われる言葉のひとつが「目には目を、歯には歯を」という言葉だ。
聖書にも確かに誰かを傷つけた者は、同じ傷を負わないといけない、というようなことも書かれている。
しかし、出エジプトでは、
21:22 人々がけんかをして、妊娠している女を打ち、流産させた場合は、もしその他の損傷がなくても、その女の主人が要求する賠償を支払わねばならない。仲裁者の裁定に従ってそれを支払わねばならない。
21:23 もし、その他の損傷があるならば、命には命、
21:24 目には目、歯には歯、手には手、足には足、
21:25 やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。
と書かれている。ここでは、償わなければならないと書かれている。やられた者がやり返す権利がある、というのではなく、やった者が償う義務がある、と書かれているのだ。
そしてさらにイエスは、マタイによる福音書で
5:38 「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
5:39 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
5:40 あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
5:41 だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。
5:42 求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」
と言われている。人々は旧約聖書の言葉から、やられた者は仕返しする権利がある、復讐する権利がある、やられたらやり返さないといけない、という風に考えていたのだろう。しかしイエスは、目には目をというのは復讐する権利があるわけではないということを言っているようだ。さらに悪人に手向かうな、悪に対しては悪をもって報いるのではなく、愛をもって接しなさいと言われているようだ。
しかしそれは何とも馬鹿げた話しに聞こえる。そんなことどうしてしなければいけないのか、そんなこと出来るわけがない、と思う。それが自然な感情ではないかと思う。憎む者が飢えていたら、ざまあみろと思い、渇いていたらいい気味だと思う。そんな奴にパンや水をやるなんて、そんなことしたらつけあがるだけだと思ってしまう。
赦し
けれども聖書は、憎む者に仕返ししろとは言わないで、逆にパンや水を与えなさいというのだ。それは、炭火を彼の頭に積むことであるというのだ。憎む者に対しては仕返しをすることが相手をやっつけることであると思う。ところが、聖書は反対に、憎む者に良いことをすることが、相手をやっつけることであると言っているようなのだ。そうすることで主があなたを報いられる、というのだ。この報いられるという言葉は、ヘブライ語の「イッシャレム」という言葉だそうで、「彼は完成するであろう」、あるいは「彼はシャロームを、平和を創るであろう」という意味もあるそうだ。
またイエスは
5:43 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。
5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
と言う。しかしそんなことできるのだろうか。そんなのはイエスが言っているだけの理想像であって、ただのお題目なんだろうか。
アメリカのマーチン・ルーサー・キングjr.は公民権運動を行った有名な牧師だが、彼がこんなことを書いている、
「実際には、そんなことは無理だ、と思う人もいる。愛してくれる人を愛することは簡単だが、面と向かって、または陰で自分を打ち倒そうとしている人をどうして愛することができるのか、と彼らは言う。
汝の敵を愛せよ、という命令は断じて、ユートピアを夢みる人の理想的な命令ではなく、私たちが生きていくためにどうしても必要なものだ。敵にさえ向ける愛こそが、世の中にある問題を解決する鍵なのだ。イエスは非現実的な理想主義ではない。彼こそが実際的な現実主義者なのだ。
憎しみを憎しみで返せば、憎しみは増加する。すでに星が全くない夜に、さらに深い闇を加えるのと同じだ。闇は闇を追い出せない。光だけが追い出せる。憎しみは憎しみを追い出せない。愛だけが追い出せる。憎しみは憎しみを増加させ、そして破壊は悪循環に陥っていく。
愛は、敵を友人に変えることのできる唯一の力だ。憎しみに憎しみをもって報いたら、決して敵をなくすことはできない。敵意をなくすことで、敵をなくすのだ。そもそも、肉思惟は傷つけ、破壊するものだ。愛というのは、創造し、建て上げるのだ。愛には贖いの力があって、憎しみを一変させる。」
「赦しとは、なされた行為を無視したり、悪事を偽りのラベルで覆ったりすることではない。むしろ、悪事がもはや人間関係の障壁にならないことを意味するのだ。赦しは、新鮮な一新と新たなはじまりのために必要な雰囲気を作る触媒なのだ。」
癒し
赦すというのは、相手のためにすることであると思いがちである。相手を束縛から解放することであり、逆に相手を解放させたくないから赦したくない、赦してなるものかと思う。自分に対して、自分の家族に対して危害を加えた者をどうして赦せるのかと思う。小学校で自分の子どもを殺された親が犯人を憎み、死刑にしてもまだ足りないと思うような気持ちもよく分かる。
けれどもやはりイエスは赦しなさい、と言うのだ。実は赦しは相手を解放することでもあり、もしかするとそれよりも自分を解放することでもある。憎しみを持ち続けることは相当なエネルギーを要することであり、また逆に憎しみに縛られ、憎しみに支配されて生きていくことでもある。赦すということは、その憎しみから自分自身を解放することでもあるのだ。憎しみを持ち続けることで、忌まわしい過去をずっと引きずっていくこと、過去の荷物をずっと持ち続けることだ。荷物を降ろしていかないとどんどん増えていくばかりだ。
赦しとは、その過去の荷物を降ろすことでもある。忌まわしい過去の鎖を断ち切ることでもあるのだろう。だからこそまたイエスは赦しなさい、と言われているのだろう。多くの人が赦すことで逆に自分自身が解放されたと言っている。
赦すこと、それは自分を癒すことでもある。22節「そして主があなたに報いられる」。さきほど言ったように、彼は平和を創るであろう、という意味もある。平和でいるため、平安でいるためにの方法は赦すことなのだろう。赦すことで初めて平安になれるということがある。
主の祈り
パウロもローマの信徒への手紙で、
12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、
12:10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
12:11 怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
12:12 希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。
12:13 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。
12:14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。
12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
12:16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。
12:17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。
12:18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
12:19 愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。
12:20 「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」
12:21 悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
と語る。
イエスは「我らに罪のある者を我らが赦す如く、我らの罪をもお赦しください」と祈りなさいと言われた。赦すことは愛すること、そしてそれは教会の立っている基盤でもある。愛と赦しがあること、それがないならば、毎週礼拝していたとしてもそこは教会ではないのだろう。
できるできないとすぐに決めてかかるのではなく、赦しなさい、愛しなさいというイエスの言葉を真剣にじっくりと聞いていこう。私たちを解放する鍵がきっとそこにある。